本能寺跡(ほんのうじあと)は、中京区の元本能寺町にある、本能寺の変が起こったときの本能寺の跡地
織田信長が明智光秀に襲われ自害したときに焼失した
現在の本能寺は、豊臣秀吉の都市改造政策による区画整理により移転させられ寺町御池下ルに再建されている
蛸薬師小川通西南角に本能寺跡の石碑が建てられている
<境内>
かつて京都市立 本能小学校があった
本能小学校の廃校により、発掘調査が行われ、
本能寺の変と同時期の大量の焼け瓦・土器・護岸の石垣を施した堀の遺構などが見つかっている
旧本能寺は、東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現在の蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた区画内にあった
東西約120m、南北約120mの一町の規模であったとされ、
塔頭も30以上建てられる
1580年(皇紀2240)天正8年2月
本堂や周辺の改築が行われ、幅約2から4m・深さ約1mの堀、0.8mの石垣、周囲に土居が造られ、
防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが確認されている
当時、敷地の東には西洞院川(明治時代に暗渠)があり、西洞院大路の路地とは接せずに土居が川まで迫り出していて、
西洞院川が堀のような役割を果たしていたといわれる
<跡地>
現在は、京都市本能特別養護老人ホーム、京都市立 堀川高等学校本能学舎、本能寺会館が建てられている
<「此附近 本能寺址」石碑>
中京区蛸薬師小川通西南角
1915年(皇紀2575)大正4年11月
京都市教育会により、現在の本能特別養護老人ホーム前(新しい石碑が建てられたところ)に建立される
その後の発掘調査で、本能寺の南東隅が判明し、より近い現在の地に移される
<「本能寺跡」石碑>
中京区油小路通蛸薬師下ル東側(本能特別養護老人ホーム前)
1994年(皇紀2654)平成6年4月
宗祖日蓮大聖人開宗七百五十年記念として、大本山本能寺第136世日攝により建立される
すぐ南には、本能小学校跡の碑もある
<地名>
旧本能寺のあった周辺には、元本能寺町や本能寺町の町名が残る