日像(にちぞう)

日像(にちぞう)は、鎌倉時代日蓮宗の僧

生年:1269年(皇紀1929)文永6年9月7日
没年:1342年(皇紀2002)興国3年/康永元年12月11日
享年:74

俗姓:平賀氏
幼名:経一丸
房号:肥後房
通称:肥後阿闍梨

四条門流の祖

出身:下総国

 日像(にちぞう)は、鎌倉時代日蓮宗の僧

 臨終間際の日蓮聖人から帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)の遺命を受け京都での布教を行う

【日像上人の経緯】

【日像上人ゆかりの地】

 <妙顕寺
 日像上人が、後醍醐天皇より、御溝傍今小路に寺領を賜り、京都における日蓮宗の最初の道場として建立する

 <本妙院
 日像上人が、酒屋 柳屋中興の帰依を得て、現在の下京区五条西洞院に創建したのが由来

 <本妙寺
 日像上人が洛北岩倉の地に巡行したとき、代官の渡辺が帰依し、その邸宅を寺院として創立した

 <宝塔寺
 洛外へ追放され、真言寺(現在の向日市)において、極楽寺の住持 良桂(りょうけい)と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服
 良桂は、日像上人に帰依し、極楽寺を法華道場に改め、日像上人を開山とし、自らは二世となる

 <南真経寺
 鶏冠井にあった真言宗の寺院 真言寺の持住 実賢(じっけん)が、日像上人の教化によって日蓮宗に改宗し、
寺名を、真言寺の「真」と日像上人の幼名 経一丸の「経」をとって「真経寺」と改めた

 <久本院
 日像上人の上足の弟子 日深上人が創建し、日像上人を開山とした

 <妙覚寺
 日実上人(にちじつしょうにん)が、日像上人を開山として、四条大宮の小野妙覚の邸に創建する

 <涌泉寺
 松ヶ崎村の歓喜寺の往持 実眼僧都(じつがんそうず)が日像上人を招き、説教を聴いて感激し、
実眼僧都や、松ヶ崎村の全住人が法華宗に帰依して、法華宗に改宗され「妙泉寺」となる
 そのとき、実眼僧都が、歓喜のあまり太鼓を打ち「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えて踊ったといわれる

【その他】

 <五山の送り火
 京都市北東部にある松ヶ崎西山の妙は、松ヶ崎東山の法と合わせて一山一字形とされる
 日像上人が、西山に「妙」の字を書き点火したのが由来とされる

 <松ヶ崎題目踊り・さし踊り
 1307年(皇紀1967)徳治2年7月16日
 往持 実眼僧都(じつがんそうず)が、日像上人を招いて説教をしてもらったとき、松ヶ崎村の全住人が法華宗に帰依して、ただただ「南無妙法蓮華経」に手を合わせ拝んだといわれる
 その様子に、実眼僧都が喜び踊躍し、太鼓を打ちながら、「南無妙法蓮華経」と唱えると、そこにいた村人も「南無妙法蓮華経」と声を合わせて跳ね踊ったといわれる
 その後、毎年7月16日の夜、涌泉寺の本堂の前で題目踊りが踊られるようになったのが由来

 <京都弘通(ぐづう)
 日蓮聖人が入滅されたときの日蓮宗の状況は、
 弟子・信徒を合わせて数百人ほどの東国の数ヵ国に散在する微々たる地方教団にすぎなかった
 日蓮聖人の教えを全国に広めるためには、文化の中心地の京都への布教が必要だった
 臨終間際の日蓮聖人から帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)の遺命を受けて、京都の布教に尽力する
 有力商工業者の帰依を受け、商工業者の集中する下京の綾小路大宮の法華堂を中心に、活動し信徒を増やしていった
 洛北松ヶ崎の天台宗歓喜寺(現在の涌泉寺)、洛西真言宗鶏冠井真経寺(現在の南真経寺)、深草極楽寺(現在の宝塔寺)を
宗論によって論伏し、日蓮宗に改宗させ、拠点となる

 <三黜三赦の法難(さんちつさんしやのほうなん)>
 布教が功を奏することで、延暦寺東寺仁和寺南禅寺相国寺百萬遍知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、
 朝廷からも京都から追放する院宣を受けた
 2年後に許され京都に帰ったが、翌年には再び流罪となる
 10年後に許され京都に帰ったが、すぐに再び追放となる
 三度の追放と赦免を受けて、その後、弘通の勅許(天皇のお許し)を得て、法華堂を移して妙顕寺を開いた

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