隣華院(りんかいん)(RinkaIn)

所在地:京都市右京区花園妙心寺町   卍地図情報卍

臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺塔頭

開基:脇坂安治(わきざかやすはる)

開山:妙心寺58世 南化玄興(なんかげんこう)

中興の祖:南海玄等

 隣華院(りんかいん)は、妙心寺塔頭の一つ

 妙心寺境内の北西、北門から南へ下ったところにある

【隣華院の歴史・経緯】


【隣華院の伽藍】

 <大玄関>

 <客殿(方丈)>
 上段の間は、書院造で最高級の格式を備えた部屋で、帳台構になっている
 正面には、床の間・違い棚、右手には付書院、左手には帳台構(武者隠し)がある
 文化年間(1804年〜1818年)
 脇坂安董、脇坂安宅父子によりに改築され、京都所司代屋敷として使われた

 <凡梵庭(ぼんぼんてい)>
 客殿南の庭
 ありのままの「平凡」と生命の根源の「梵」を表しているという
 白砂の砂紋に、2つの苔による島がある

 <墓地>
 上杉景勝室・菊姫のお墓


【隣華院の寺宝】

 <木造漆箔彩色 豊臣棄丸坐像・玩具船(重要文化財)>
 豊臣秀吉の息子で3歳で死去した棄丸(鶴松)の木像
 幼児の肖像彫刻は、とても珍しく貴重なもの
 かつての菩提寺だった祥雲寺(後の智積院)に安置されていた
 寄木内刳、玉眼彩色、桃山時代の作
 船は、棄丸が殿中を引いて遊んだといわれ、敷板に車輪が付いている
 船の首尾に屋形があり、船の周りには勾欄が付いている
 総長約2m、幅約68cm
 京都国立博物館に寄託されている

 <障壁画「山水図」20面(重要文化財)>
 客殿の室中の二十面の襖絵
 金泥に墨一色で描かれた厳かで風格がある
 東西南北それぞれに春夏秋冬が表されている
 1599年(皇紀2259)慶長4年
 創建時に、61歳の長谷川等伯により描かれた

 <狩野永岳の障壁画>
 金地極彩色の鮮やかな障壁画
 禁裏御用絵師として活躍していた狩野永岳(かのうえいがく)の代表作
 岩絵具という色落ちがしにくい塗料が用いられている
 1825年(皇紀2485)文政8年の作
 客殿上間一の間の「四季花鳥図」
 客殿二の間の「松図」「西園雅集図」「竹虎図」「龍図」
 客殿下間一の間に「紅葉図」

 「西園雅集図(せいえんがしゅうず)」は、北宋時代の中国を描いた襖絵8枚
 庭園で遊ぶ、中国の詩人たちの姿を彩り豊かな極彩色によって描き出されている

 <杉戸の虎の絵>
 客殿の廊下の杉戸に描かれている
 描かれた当時、日本には虎が存在せず、ネコが虎の着ぐるみをかぶったような表情になっている


【その他】

 <南化玄興(なんかげんこう)>
 臨済宗の僧
 1538年(皇紀2198)天文7年に、美濃国に生まれる
 1570年(皇紀2230)元亀元年
 33歳で妙心寺58世となり、その後、妙心寺の住持を4度務めた
 1591年(皇紀2251)天正19年
 豊臣秀吉は、3歳で死去した愛児・鶴松(棄丸)の菩提のために、南化玄興を開山に招いて祥雲寺を建立

 妙心寺山内には、南化玄興を開山に、武将 一柳直末が大通院を、武将 稲葉貞通が智勝院を創建されている

 <脇坂安治(わきざかやすはる)>
 賤ヶ岳の七本槍の一人とされる武将
 1554年(皇紀2214)天文23年に近江国に生まれる
 1569年(皇紀2229)永禄12年
 丹波国 黒井城攻めにより、羽柴秀吉に謁見し食禄を与えられる
 1578年(皇紀2238)天正6年
 播磨国 三木城の戦で立てこもった別所長治を攻め、その功により、豊臣秀吉から輪違を描いた赤幌(母衣)を与えられ、
家紋「輪違」の由来となる
 1583年(皇紀2243)天正11年
 賤ケ岳の戦いでの七本槍の一人として戦功をあげる
 1600年(皇紀2260)慶長5年
 関ヶ原の戦では、西軍から東軍に寝返る
 1609年(皇紀2269)慶長14年
 伊予国大洲城主となる

【隣華院へのアクセス】

 市バス 妙心寺北門前 徒歩すぐ
 嵐電 北野線 妙心寺駅 徒歩約5分
 JR山陰本線(嵯峨野線) 花園駅 徒歩約15分

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