観阿弥(かんあみ)は、南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師
 大和猿楽に幽玄さを付け加え、息子の世阿弥とともに能を大成した
 <猿楽中興の祖>
 室町時代初期には田楽が流行しており、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を、表舞台の芸能に引き上げ、
芸術性を飛躍的に高めた
 現在の能の礎を築いたといわれる
 <大和音曲>
 36歳のこの頃、猿楽に曲舞(くせまい)の節を取り入れ、大和音曲を創始する
 それまで、大和猿楽はメロディー主体の小謡節を特徴としており、あまり優美とはいえないものだったとされる
 拍子主体のリズミカルな曲舞の節を取り入れることで、大和猿楽は幽玄さを備えるようにもなり、大きな革新だったといわれる
 <観阿弥の事跡>
 世阿弥の伝書によると、
 「大柄であったが、女性を演じると優美であった」
 「大和猿楽伝来の鬼の能に優れていた」
 「武家にも民衆にも愛された」などと記されている
 観阿弥は、自ら新しい曲を多く作った
 <自然居士>
 <卒都婆小町>
 <百萬>
 <吉野静>
 <四位少将(通小町)>
 <真珠庵>
 観阿弥・世阿弥親子のお墓がある
 <新熊野神社>
 1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年5月9日
 新熊野神社で観阿弥父子の演能を室町第3代将軍 足利義満が見て認められ、愛顧を受けるようになった
 <醍醐寺>
 1371年(皇紀2031)建徳2年/応安4年頃、自らの一座を率いて演能を行い、これにより京の都にも名声がおよぶようになった
 <新日吉神宮>
 坂本の日吉猿楽から伝わったといわれる「翁」の曲を観阿弥が上演した地といわれる
 <浅間神社(静岡市葵区宮ヶ崎町)>
 病気により死去する直前の最後の舞台の地
 26世宗家観世清和による顕彰碑がある
 <伝説>
 曾孫の観世小次郎信光の肖像に書かれた讃によると
 伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父親が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、
三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ、春日神社に捧げた、といわれる