古事記 上巻 并序(こじきかみつまきならびにじょ)」は、
「古事記」の上巻(こじきかみつまき)に記されている序文
撰者である太安萬侶(おほのやすまろ)が第43代 元明天皇に奏上する形式で記されている
「并びに序(ならびにじょ)」「序を并せたり(じょをあわせたり)」などとも読まれる
「古事記」本文の内容の要約や、「古事記」編纂の経緯が記されている
本文とは異なりすべて漢文体で書かれている
標題に「并序(序を併せたり(じょをあわせたり))」と記されている
<序第1段>
「稽古照今(古を稽へて、今について照らし合わせて考えてみる)」という熟語の由来となっている
「古事記」の内容の要約が記されている
天地創生の話からはじまり、いくつかの天皇の事蹟が記され、
政治についての記載にはほぼ誤りはなかったと記されている
<序第2段>
「古事記」編纂の由来
第40代 天武天皇の事蹟が記され、天武天皇の勅命により、
舎人(とねり)(雑用係)であった稗田阿禮(ひえだのあれ)に、
「帝紀(ていき)」「旧辞(きゅうじ)」などの古伝承を暗誦させたが、
時世の移り変わりにより文章に残せなかった経緯が記されている
<序第3段>
「古事記」の成立
第43代 元明天皇が、太安萬侶(おほのやすまろ)の勅命により、
稗田阿禮の暗誦を編纂した経緯が記されており、
昔の言葉を文字に表すのに苦労したこと、最後には巻構成について記されている
臣下(しんか)の安萬侶(やすまろ)が奏上します
元々は、混沌とした気がすでに凝り固まってきたものの、気配も現象も未だ現れず、名もなく動きもなく、
その形を知っているものは誰もいませんでした
しかし、天地が初めて分れると、三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)が創造の初まりとなり、
陰陽が分れると、二霊(伊邪那岐命、伊邪那美命)が万物の祖となりました
そして(伊邪那岐命が)黄泉国(よみのくに)に出入りをして、
目を洗うと、日(天照大御神)と月(月読命)が現われ、
海水に浮かんだり沈んだりして身を清めると神々が現われました
このように、この世の始まりはハッキリしませんが、言い伝えによって、
神が国土を造り島を生んだ時のことを知ることができ、
またこの世の始まりは、遥か遠い昔のことではありますが、昔の賢人たちのおかげで、
神が生まれ人が育ってきた世のことを知ることができます
たとえば、(天照大御神を天の岩屋がら引き出すために)鏡を枝に掛けたり、
(誓約(うけひ)で須佐之男命が)珠(たま)を吐いたり、
(天照大御神が)剣を噛んだり、
(須佐之男命が)大蛇を斬ったりして、多くの神々が繁栄しました
天の安河(やすのかは)では、葦原中国(あしはらのなかつのくに)を平定させる相談をしたり、
(出雲の)小浜では(大国主命と)論争して国土を清められました
こうして、番仁岐命(ほのににぎのみこと)が、初めて高千穂(たかちほ)の山に降り立ち、
神倭天皇(かむやまとのすめらみこと)(初代 神武天皇)が、
年月を経へて、秋津島(あきづしま)(畿内)に入ります
神が化身した熊が川から現れたり、天の剣を高倉下(たかくらじ)(人名)に与え、
尾のある人間が道を遮ったり、大きな烏(八咫烏)が吉野へ導きました
一同が揃って舞い踊り、歌を合図に賊を倒し従わせました
(第10代 崇神天皇は)夢のお告げを受けて神祇(じんぎ)を敬ったので、賢后(けんこう)と称えられます
(第16代 仁徳天皇は)民家の煙が上がる様子を見て民を心配したので、聖帝(せいてい)と伝えられます
(第13代 成務天皇は)国々の境界を定めて開拓し、近い近江で天下を治めました
(第19代 允恭天皇は)姓(かばね)を正しく定め、氏(うじ)を再編成して、遠い飛鳥で天下を治められました
代々の政治には差異があり、文質があり、今と同じとは言えませんが、古(いにしえ)を顧みないことはなく、
すでに廃れた道徳を正してきたり、今の世で絶えようとしている正しい教えを補ったりしてきました
飛鳥の清原(あすかのきよみはら)の大宮で大八州を治めた天皇(天武天皇)の御世に至り、
即位する前の皇子は徳を具え、時期を窺っておられました
夢の中で聞いた歌を解釈して、皇位を継ぐ事を占い、夜に(伊賀の名張の)川を渡って、
皇位を継ぐべきことを知ります
しかしながら、その天運は未まだ訪れず、吉野山(よしのやま)に蝉のようにこっそり隠棲され、
味方の人員が整ってから、東国に虎のように進軍されました
皇子の御輿(みこし)は進み、山を越え川を渡り、皇子の軍勢は雷のように奮い立ち、
諸侯の軍勢は電撃のように進みました
杖や矛(ほこ)が威力を発揮し、猛士は土煙を挙げて、皇子の赤い旗は兵士を輝かせて、
凶徒(近江朝廷の軍)は瓦のように砕け散りました
幾日も経たないうちに争いは収まりました
それで、すぐに牛や馬を休ませて、心高々に都に帰り、旗を巻き矛を収めて、舞い踊って都に留まりました
そして、酉年に、月は夾鐘(けふしよう)(2月)になり、清原(きよみはら)の大宮で、天皇に即位されました
その政治は軒后(けんこう)(古代中国の神話的皇帝)にも勝り、徳は周王(しゅうおう)〕(周王朝の文王)を凌ぎました
三種の神器をもって天下を治め、皇統を継いで、荒遠の地も広く天下を治めました
陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神祇を施し良俗を奨め、優れた教えを国に広めました
それにくわえ、その知は海のように広く、深く上古を探究し、心は鏡のように輝いて、先代のことも見極めていました
そして、天皇は「私が聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀(ていき)と本辞(ほんじ)は、
既に真実と違っており、虚偽を多く含んでいるとのことである
今この時に、その誤りを改めなければ、数年も経たないうちに真の伝承は滅んでしまうだろう
これはそもそも国家の根本であり、天皇統治の基本である
それ故に、帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う」と言われた
その時に、舎人(とねり)がいました
姓は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年は28歳でした
人となりは聰明で、一見しただけで誦えることができ、
一度聞いただけで、心に刻み付けて覚えることができました
そこで、天皇は阿禮に命じて、帝皇日継(すめらみことのひつぎ)や先代旧辞(さきつのよのふること)を読ませて記憶させました
しかし天皇の代が変わり、未だ、その伝承は行なわれませんでした
謹んで考えますに、天皇陛下(第43代 元明天皇)は、即位されて輝かれ、
三才(天地人)通じて民を育てられておられます
紫宸殿(御所)におられても、その徳は馬の蹄の音が届く果ての地にまで及び、
御所に座っておられても、その教科は船の舳先(へさき)まで行き渡っています
日が出でて輝きを増したり、雲が煙りのように散ったり、枝が連なり穂が合わさったりと、
瑞祥(ずいしょう)が続き、史官は出来事を記録することが絶えず、
烽火(のろし)を次々と上げたり、通訳を必要とするような遠くの国々からの貢物が届き、倉が空になる月はありません
その名は文命(ぶんめい)(夏王朝の王)よりも高く、徳は天乙(てんいつ)(殷王朝の王)にも勝っていると言っても過言ではないでしょう
さてここで、(天皇陛下は)旧辞が誤り間違っているのを惜しみ、先紀の誤り間違いを正そうとして、
和銅四年九月十八日に、臣下(しんか)の安萬侶(やすまろ)に、
稗田阿禮(ひえだのあれ)が(天武天皇の)勅命によって誦えて記憶した旧辞を撰録して献上せよと
仰せになりましたので、謹んで詔の通りに詳細に採録いたしました
しかしながら、上古(じょうこ)においては、言葉も意味もともに素朴で、
文章として字句を並べて書き表わすことは、漢字では困難でした
すべて訓で書き表わすと、文の語句の意味が通じなくなり、すべて音を用いて書き表わすと
文章が長たらしくなってしまいます
そこで今回は、ある一つの字句の中には音と訓とを交えて用いて、ある一つの事柄をの中には、
すべて訓を用いて書きました
そして、文意の分かりにくいものには注釈を加えて明らかにして、
意味が分かりやすいものには、特に注釈を加えることはしませんでした
また、姓について、「日下(にちげ)」を「玖沙訶(くさか)」と書いたり、
名について、「帯(たい)」の字を「多羅斯(たらし)」と書くようなものは、元のままにして改めることはしませんでした
およそ書き記したところは、天地開闢(てんちかいびゃく)から始めて、小治田(をはりだ)(推古天皇)の治世までです
そして、天之御中主から日高日子波限建鵜葺草葺不合命までを上巻(かみつまき)とし、
神倭伊波礼毘古天皇から品陀(ほむだ)(応神天皇)の治世までを中巻(なかつまき)とし、
大雀皇帝(おほさざきこうてい)(仁徳天皇)から小治田の大宮(推古天皇)の治世までを下巻(しもつまき)としし、
併せて三巻に書きとめましたので、謹んで献上いたします
臣下(しんか)の安萬侶(やすまろ)が、誠惶誠恐(せいこうせいきょう)(まことに謹んで)申し上げます
712年(皇紀1372)和銅5年1月28日 正五位上 勲五等 朝臣 太安萬侶(おほのあそみやすまろ)