朝倉義景(あさくらよしかげ)(Yoshikage Asakura)

戦国時代の越前国の戦国大名

生年:1533年(皇紀2193)天文2年9月24日
没年:1573年(皇紀2233)天正元年8月20日
享年:41

父親:朝倉氏第10代当主 朝倉孝景
長男
母親:広徳院(光徳院)(武田元信か武田元光の娘)

幼名:長夜叉、その後、延景(のぶかげ)
通称:孫次郎

越前朝倉氏第11代 最後の当主

 朝倉義景(あさくらよしかげ) は、戦国時代の越前国(福井県)の戦国大名

 越前朝倉氏第11代 最後の当主で、織田信長に滅亡させられる

 朝倉氏は、7代当主 朝倉敏景(孝景)のとき、応仁の乱や主家 斯波氏の内紛により、越前国を領国にして、
一乗谷(福井市)に城を築いて支配していたが、常に加賀一向一揆との争いになっていた

 三好政権によって都を追われて下ってきた14代将軍 足利義昭に上洛を促されるが、その気はなく
 美濃国を追われて朝倉義景の重臣となっていた明智光秀が、織田信長に仲介する

 織田信長明智光秀が、将軍 足利義昭とともに上洛してから、侵攻を受けるようになり
浅井長政と協力して対抗したが、姉川の戦い(滋賀県長浜市)で大敗
 一乗谷まで敗走して戻るが、織田信長に追われて居館や神社仏閣などの焼き討ちにあい、自害し、朝倉家も滅亡する

【朝倉義景の歴史・経緯】

【朝倉義景】

 越前朝倉氏第11代 最後の当主で、織田信長に朝倉家が滅亡させられた

 <文芸>
 歌道・連歌・和歌・絵画に才能があり、猿楽・作庭・茶道など多くの芸事を好んで行った

 京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも称されるようになる

 1562年(皇紀2222)永禄5年には、大覚寺義俊を招いて曲水の宴を催した

 14代将軍 足利義昭を迎えたときにも、詩歌の宴を催した

 茶道にも凝り、一乗谷からは現在も多くの茶器が出土している


 <鉄砲隊>
 加賀一向一揆との戦いにおいて、当時は先進的だった鉄砲隊 約100名の「鉄砲寄子」を
明智光秀の指導の下、結成したといわれる


 <辞世の句>
 「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
 「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」

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