洞ヶ峠(ほらがとうげ)は、八幡市八幡福禄谷と、大阪府枚方市高野道の府県境にある峠
東高野街道の峠で、山城国・河内国の国境にあり、洞ヶ峠より南は河内国であり「南峠」とも称された
交通・戦略上の要地として、たびたび陣所が置かれ、争奪戦が繰り広げられた
現在は、洞ヶ峠の東側を国道1号(枚方バイパス)(京阪国道)が通っており、
北側は京都府道284号八幡京田辺インター線(山手幹線)が整備され、交差点「八幡洞ヶ峠」がある
峠のような坂道はなく、勾配の緩やかな4車線道路となっており、北方の山崎も望めない
現在の八幡市八幡福禄谷と、大阪府枚方市高野道の府県境にあった峠
石清水八幡宮から高野山への参詣道であった東高野街道の峠だった
北方の淀川(桂川・宇治川・
木津川の合流地)対岸にある山崎や天王山を望む位置にあり、交通・戦略上の重要拠点の一つであった
戦国時代には、筒井順慶が、山崎の戦いの戦況を見ていたといわれるが、現在では全く見えない
<東高野街道>
洞ヶ峠があった、石清水八幡宮から高野山への参詣道
国道1号(枚方バイパス)(京阪国道)の西側を走っている
<八幡洞ヶ峠交差点>
洞ヶ峠の東側の国道1号(枚方バイパス)(京阪国道)と、北側の京都府道284号八幡京田辺インター線(山手幹線)との交差点
交差点の少し南が大阪と京都の府県境になる
<石碑「筒井順慶陣所跡」>
八幡洞ヶ峠交差点の南東角に立っている
<洞ヶ峠を決め込む>
どちらの方が有利になるか様子うかがいをして何もしないこと
日和見主義的なこと
戦国時代
信長から大和国を与えられてた筒井順慶は、明智光秀に次ぐ勢力を持ち、
明智光秀の与力大名として、光秀とは個人的にも親しかった
山崎の戦い
本能寺の変の直後、明智光秀と羽柴秀吉の軍が、洞ヶ峠の北方の山崎において対峙する
筒井順慶は、光秀の依頼に応じて洞ヶ峠まで出陣しながら、合戦が始まっても形勢をうかがって兵を動かさなかったといわれる
このことから、江戸時代には、
噺家たちによって、日和見することを「洞ヶ峠」「洞ヶ峠を決め込む」といわれて語られたといわれる
実際は、筒井順慶は、居城の大和郡山城で籠城しており、洞ヶ峠には出陣していなかったといわれる