山崎の戦い(やまざきのたたかい)

日時:1582年(皇紀2242)天正10年6月13日

場所:京都府乙訓郡大山崎町   名所地図情報名所

別称:山崎の合戦、天王山の戦い

 山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、明智光秀織田信長を討った本能寺の変を受け、
羽柴秀吉の軍勢が、摂津国と山城国の境に位置する山崎において、明智光秀の軍勢と激突した戦い


 本能寺の変の謎は多く、様々な説の伝承があり、その後の山崎の戦いでの敗因も様々な要因がいわれるが、
 本能寺の変で、信長光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全て想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉家康に安定的な世の平定を託したといわれる

 豊臣秀吉が、主君 織田信長を討った明智光秀を討伐したことで、一気に秀吉による天下統一が進んだといわれる

 戦国一の戦術家で知将の明智光秀は、大山崎の町を戦火から守るために、必勝の戦術を取らなかったといわれる

 大山崎の町に禁制を出したのは、本能寺の変の翌日であり、
 その時点で、山崎の地で秀吉と戦うことを示し合わせていたといわれる
 光秀は、合戦場から少し離れた淀城勝龍寺城の修築を行いながら、秀吉の到着を待っていたといわれる

【山崎の戦いの経緯】

 安土桃山時代
 1582年(皇紀2242)天正10年6月2日 本能寺の変
 明智光秀が、本能寺に滞在していた主君 織田信長に討ち入りをする
 信長は、光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦め、火を放ち自害する
 嫡男 織田信忠も、宿泊していた妙覚寺から二条新御所に移って戦ったが、火を放って自害した

 羽柴秀吉は、中国攻めで、備中高松城で毛利軍と交戦中
 徳川家康は、信長に勧められ、堺を見物中
 丹羽長秀は、堺で、四国征伐のために待機中
 柴田勝家は、越中魚津城で上杉軍と交戦中
 滝川一益は、上野厩橋城で北条軍と対峙していた


 明智光秀は、京の治安維持に当たり、
武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣して、坂本城や安土城の周辺を平定して、京以東の地盤固めを行い、
織田軍勢の中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えをする

 肥後細川家に伝わる「明智光秀公家譜覚書」には、
本能寺の変の後、光秀が、縁戚であった細川藤孝細川忠興父子に味方になることを説得した書状があり、
その中で、光秀本能寺の変の後、朝廷に参内して、従三位・中将に叙任された上で、征夷大将軍の宣下を受けたと記されている

 光秀は、全国の諸将へ向け「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、賛同を求める書状を送る

 諸将達は、信長の命で戦いを強いられてきて疲弊をしており、羽柴秀吉や柴田勝家との戦を避けたく、
また、自身も家臣から討たれる恐れがある謀反を認めることができず動きが取れなかった

 堺にいた家康は、すぐさま伊賀越えをして自国の岡崎城へ帰った
 (岡崎城から光秀討伐に向かったが、鳴海まで着いたところで、既に合戦が始まった知らせが入り反転して、
領主がいなくなった甲斐・信濃の領土化を目指した)


 6月3日
 細川藤孝細川忠興父子は、松井康之を通じて「喪に服す」と、織田信孝に二心の無いことを示し、
光秀を裏切ることになり武士の資格はないとして剃髪し中立の構えを見せる

 細川忠興は、妻である光秀の娘 珠(細川ガラシャ)を、守るために辺境に幽閉する

 奥丹後の領主 一色氏は、光秀に応じて、南丹後の細川氏は軍勢を動かせなくなる

 光秀は、大山崎の町を戦火から守るために、大山崎の町に禁制を出したといわれる

 同日
 柴田勝家は、信長の命で動いていた上杉方の魚津城(富山県魚津市)を落とす

 6月3日夜から4日未明にかけて
 秀吉は、本能寺の変の報告を受けて、ただちに毛利軍との和議を結ぶ

 6月4日午前10時頃
 秀吉は、堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして備中高松城の守将 清水宗治の自刃の検分を行い、開城する

 柴田勝家も本能寺の変を知り、上杉との停戦して、前田利家、佐々成政らに託して京を目指す
 (越前と近江の国境の柳ヶ瀬峠まで着いたところで合戦の報が入り、京へは向かわずそのまま清洲城に向かう)

 光秀は、勢多城(大津市瀬田)城主の山岡景隆を味方にしようとするが、
山岡景隆は拒絶して、瀬田橋と居城を焼いて甲賀に撤退する

 6月5日
 秀吉は備中高松城から撤兵し、山陽道、西国街道をひた走り京を目指した約200kmの「中国大返し」を行う

 秀吉は、京都への進路上にいる摂津衆の一人 中川清秀に「上様、殿様は危難を切り抜けられ膳所に下がっておられる
これに従う福富秀勝は比類なき功績を打ち立てた」という旨の偽の報告の手紙を出し、
摂津衆の多くを秀吉軍の味方につける
   6日に沼城(岡山城東方)、7日夕方に姫路城に着き、9日未明まで休養、9日正午に明石に到着
   10日朝に明石を出発し、夜には兵庫、11日夕方には尼崎、12日には富田に到着する

 6月5日
 光秀は、安土城に入って、信長が貯蔵した金銀財宝や名物品を全て家臣や味方に与え、
 佐和山城(滋賀県彦根市)、長浜城(滋賀県長浜市)を攻めて両城を占拠する

 光秀の娘と結婚していた信長の甥 織田信澄が、丹羽家家臣 上田重安によってらに自害に追い込まれる

 奈良 興福寺からは、仏敵 信長を倒したことで祝儀を受ける

 6月6日
 光秀は、上杉氏に援軍を依頼する

 6月7日
 光秀は、安土で勅使 吉田兼和(兼見)と面会し、誠仁親王から、朝敵だった信長を倒したことで進物など祝儀を受ける

 6月8日
 光秀は、安土城を発って京都に戻る

 6月9日
 光秀に応じた筒井順慶は、少数の配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に付くことを決めており、
居城の大和郡山城で籠城の支度を開始する

 6月10日
 光秀は、下鳥羽に出陣し、南殿寺に本陣を置き、男山に布陣していた兵を撤収させ、淀城勝龍寺城の修築に取り掛かる

 光秀は、筒井順慶に再度、出陣要請をするため洞ヶ峠まで赴いたが、約束の時間になっても順慶は現れなかった

 徳川家康の接待のために軍勢と離れていた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀は、
本能寺の変により、四国の長宗我部征伐のために大坂に集結していた軍勢から多くの兵が逃亡した失ったが、
数千の兵をまとめて合流する

 6月12日
 秀吉は、富田に到着し、富田で軍議を開き、山崎を主戦場と想定した作戦を立てる

 両軍が、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで(現座の大山崎JCTのあたりで)対陣する

 羽柴軍は、中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、
池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の西国街道に沿って布陣し、
秀吉の本陣は後方の宝積寺に置かれた

 明智軍は、御坊塚に光秀の本陣を、その前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)が、
河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った
 当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、
明智軍がその出口に蓋をした形となっている


 6月13日午後4時頃
 雨の中で対峙が続いていたところ
 秀吉方の中川隊が、高山隊の横に陣取ろうと天王山の山裾を横切って移動していたところを、伊勢貞興隊が襲い掛かり
それに呼応して、伊勢貞興隊の左側に布陣していた斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた

 中川・高山両隊は、斎藤・伊勢隊の猛攻を受けて陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる

 天王山山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊が前方に仕掛け、
 中川・高山両隊の側面を突くべく、天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、一進一退の攻防が続いた

 淀川沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡って津田信春を奇襲する

 津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出し混乱する

 池田隊に続くように、丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突く

 これにより、苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返す

 動揺が全軍に広がった明智軍は総崩れとなっていく

 御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、羽柴軍を抑え壊滅する

 光秀は、戦線後方の勝龍寺城に退却する
 主力の斎藤隊も壊滅、松田政近、伊勢貞興らが討死する

 日没になり、羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、追撃は散発的なものになる


 勝龍寺城は平城で、大軍を収容できなく、明智軍は700余にまで減衰した

 光秀は、勝龍寺城を密かに脱出して坂本城を目指すが、小栗栖の藪(現在の「明智藪」)で土民の落ち武者狩りにより、
百姓 中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて重傷を負わされる

 重傷を負った光秀は、家臣 溝尾茂朝に介錯を頼んで自害する
 溝尾茂朝は、光秀の首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、坂本城まで持ち帰ったともいわれる


 6月14日
 秀吉は、勝龍寺城に入り体勢を整え、堀秀政を、交通路遮断と光秀の捜索に近江に派遣する

 安土城を預かっていた明智秀満は、山崎の戦いの敗戦を知って坂本城に移動する

 6月15日
 堀秀政は、光秀の後詰のために急遽、300余の兵で出兵した明智秀満の軍を、打出の浜で迎え撃ち撃破する

 坂本城は羽柴秀吉の大軍に包囲される

 明智秀満は、坂本城まで敗走し、光秀が所有する天下の名物・財宝を保護するために堀秀政に渡し、
光秀の妻 煕子、娘 倫子を介錯し、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃する

 中川・高山両隊は、亀山城に向かい、光秀の息子 明智光慶を自刃させ、亀山城を占拠する

 6月16日
 羽柴軍は京に入り、
 長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの降伏によって近江を平定する

 6月17日
 斎藤利三が、潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首磔刑に処された

 光秀の首は、本能寺にさらされる
 光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、暑さで著しく腐敗しており判別できなかったといわれる

 6月27日
 秀吉は、清洲会議を催して、領地再分配などを決め地位を固める

 7月19日
 最後に残った明智方の武将 武田元明が、丹羽長秀に攻められ自刃する
 京極高次は、妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏する

【山崎の合戦】

 1582年(皇紀2242)天正10年6月13日
 明智光秀羽柴秀吉の両軍が、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで(現座の大山崎JCTのあたりで)対陣した

 <羽柴軍>
 約4万0000人
  高山右近・木村重茲:2000人
  中川清秀:2500人
  池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000人
  丹羽長秀:3000人
  織田信孝:4000人
  秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・神子田正治・蜂屋頼隆など):20000人
       直番衆(加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、増田長盛、仙石秀久、田中吉政)

 中川・高山ら摂津衆が、山崎の集落を占拠し最前線に着陣する
 池田恒興らが右翼に、
 黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の西国街道に沿って布陣
 秀吉の本陣は後方の宝積寺に置かれた

 宝積寺には、秀吉が合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したといわれる三重塔が現存する


 <明智軍>
 約1万6000人
  美濃衆 斎藤利三・柴田勝定:2000人
  近江衆 阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝):3000人
  山城・丹波衆 松田政近・並河易家:2000人
  旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000人
  河内衆 津田正時:2000人
  光秀本隊(藤田行政など):5000人
       小川祐忠、進士貞連、可児吉長、津田信春なども参戦

 明智五宿老のうち、光秀の従兄弟 明智光忠のみが、二条新御所を攻撃した時の負傷のため合戦に参加できなかった

 光秀の本陣は御坊塚に置かれ、
 斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)が光秀の本陣の前面に、
 河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った

 光秀の本陣は、御坊塚(大山崎町下植野境野)にある境野古墳群に置かれたといわれていたが、
 2011年(平成23年)に、大山崎町に隣接する長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘で大規模な堀跡(恵解山古墳)が見つかり、
長岡京市埋蔵文化財センターにより、そこが光秀の本陣跡だと発表されている

 <淀城
 光秀が、6月10日より淀城勝龍寺城の修築に取りかかる

 淀城は、四国 長宗我部征伐のために堺に布陣していた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀が、
京へ向かう京街道の最終防衛ラインとした

 <勝龍寺城
 秀吉が京へ向かう西国街道の最終防衛ラインとした

【光秀の敗因】

 光秀の敗因は、様々な要因がいわれるが、
 本能寺の変で、織田信長光秀の討ち入りと聞いて一瞬で諦めさせたほどの戦略家・知将であった光秀は、
全て想定した上で、朝敵・仏敵となっていた信長の恐政を絶ち、秀吉家康に安定的な世の平定を託したといわれる

 <兵力の差>
 中国平定のために織田軍の主力を任されていた秀吉が、事前に知らされていたかのように迅速に戻ってきたこと
 畿内の有力大名で縁戚でもあった細川・筒井両氏の助力を得られなかったこと
 明智軍の兵は、京の治安維持と、東の地盤固めのために近江方面にも割いていたことで
 2倍から3倍とされる兵力の差があったといわれ、
 両軍が、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで対陣した段階で、既に大勢は決していたといわれる

 <大山崎の禁制(きんぜい)>
 本能寺の変の翌日、光秀は、大山崎の町に禁制を出す
 禁制(きんぜい)は、禁止する事柄を広く知らせるために出された文章で、
 光秀は、大山崎の町を戦火にさらさぬように約束をしたといわれる

 山崎の地は、天王山と淀川に挟まれた非常に狭い地域で、大山崎の町の中心部は、もっとも狭い場所で、
山裾から川岸まで200mほどしかなく、この狭い地域では兵力も3,000程度しか展開できないことから、
織田軍団でも最も鉄砲の戦術にも優れていた光秀が、そこに布陣していれば兵力差は問題なく戦うことができたといわれる

 戦国一の戦術家で知将の光秀が、大山崎の禁制を守るために、その戦術を取らなかったといわれる

【山崎の戦い由来の言葉】

 <洞ヶ峠(ほらがとうげ)>
 どちらの方が有利になるか様子うかがいをして何もしないこと

 信長から大和国を与えられてた筒井順慶は、光秀に次ぐ勢力を持ち、
 光秀の与力大名として、光秀とは個人的にも親しかった

 筒井順慶は、光秀の依頼に応じて洞ヶ峠まで出陣しながら、合戦が始まっても形勢をうかがって兵を動かさなかったといわれる

 実際は、筒井順慶は、秀吉方に寝返ることを決めており、少数の配下を派遣して、
自分は居城の大和郡山城で籠城の準備を行っていた
 光秀は、面会をしに洞ヶ峠まで行ったが、約束の時間になっても順慶は現れなかったといわれる


 <天王山(てんのうざん)>
 ものごとの勝敗を決める正念場や、運命の分かれ目のこと

 秀吉方の中川清秀隊が、高山右近隊の横に陣取ろうと天王山の山裾を横切って移動していたところを、
光秀方の伊勢隊が襲い掛かり、それに呼応して、斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた
 中川隊・高山隊は、伊勢隊・斎藤隊を一時は崩壊寸前まで追いつめられたが、秀吉方の援軍の到着で押し返す

 これがいつしか「天王山を占拠した秀吉方が有利になって戦いの命運を決めた」と称されるようになり、
「天王山の戦い」と称されるようになった

 実際には、天王山の争奪があったかは定かではない
 現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている


 <三日天下(みっかてんか)>
 短い期間だけ権力を得ること

 実際には、光秀本能寺の変信長を倒したのが6月2日、山崎の戦いで敗れたのが6月13日
 約12日間の天下だった



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