如意ヶ岳(にょいがだけ)は、東山の一峰で、標高472mと最高峰で、東山北端にある主峰
山域は北白川、浄土寺、鹿ヶ谷
左京区と滋賀県大津市の境になっている
山頂から西に約1.3kmのところに支峰(西峰)の大文字山がある
京都市市内からは如意ヶ岳は全く見えない
<登山ルート>
ハイキングコースとしても人気があり、山頂まで様々なルートがある
鹿ヶ谷の霊鑑寺、瑞光院付近からの入山
霊鑑寺に沿って東へ登り、送り火の火床は通らず、大岩(奇石)を経由し、大文字山山頂より東の「四つ辻」に至る
京と近江の近道とされ、「如意越(にょいごえ)」と称される
銀閣寺の北側、浄土院、八神社および行者の森石碑辺りからの入山
送り火の「大」の字の左側の火床までは約30分
砂防ダム、千人塚を経由して、「大」の字の左手に出て、大文字山山頂を越えてしばらく東に進むと大文字四辻に至る
南禅寺付近、蹴上の日向大神宮からの入山
「京都一周トレイルコース」の東山ルートで、道標が完備されている
送り火の火床は経由せず、大文字四辻に至る
山科駅北方、山科川の上流安祥寺川のほとり、毘沙門堂付近からの入山
途中で南禅寺・蹴上ルートと合流、大文字四辻に至る
<菱形基線測点>
山頂に八角形の大きな石柱がある
<大文字四辻>
東山の稜線上に、東山三十六峰縦走のポイントとなる四差路がある
西は霊鑑寺へ下る道、北は大文字山へ登る道、南は南禅寺方面へ下る道、東は三井寺へ抜ける道になっている
開けた場所となっている
<如意越(にょいごえ)>
鹿ヶ谷の霊鑑寺、瑞光院付近から入山して、池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道
京と近江の近道とされる
<談合谷路>
霊鑑寺に沿って東へ登る道
俊寛僧都らの談合(鹿ケ谷の陰謀)にちなんで称される
このルートは、送り火の火床は通らず、大岩(奇石)を経由し、大文字山山頂より東の「四つ辻」に至る
<楼門の滝>
如意越を登っていったところにある
高さ約10m
「楼門の瀑布」「如意滝」とも称される
<俊寛僧都忠誠之碑>
楼門の滝から、さらに談合谷路を登っていったところにある
高さ約3mの石碑
「平家物語」の俊寛僧都などに因んで祇園十二段家 西垣精之助により建てられた
碑の下には、硫黄島の石も埋められている
<瓶子桜>
「俊寛僧都忠誠之碑」の周辺に植えられた数百本の桜
<千人塚>
太平洋戦争後期、山中に壕を構築していたところ、大きな壺に入った大量の遺骨が発見され、それを祀られたもの
石碑が立っている
この付近で、霊鑑寺からの如意越ルートと、銀閣寺からのルートと合流する
<如意岳城跡>
如意ヶ岳と大文字山の間に築かれた城跡
文明年間(1469年〜1487年)に、多賀忠高により築城されたといわれる
山頂を本丸として、東西尾根約1kmに空堀・土塁・腰郭があったといわれる
その後、細川晴元や六角定頼など、多くの武将が増改築して戦闘に使ったとされる
<中尾城跡>
銀閣寺の裏にあたる、如意ヶ岳の北西の支峰 中尾山に遺構がある
1549年(皇紀2209)天文18年頃、足利義晴および細川晴元が築城したとされる
1550年(皇紀2210)天文19年11月に落城、焼失した
「万松院殿穴太記」によると、威容など名城であったとされる
<如意寺跡(にょいじあと)>
かつて、如意ヶ岳東辺の山中にあった大規模な山岳寺院の跡
園城寺(現在の三井寺)の別院で、比叡山延暦寺三千坊の一つ
開基は、智証大師 円珍とされる
1336年(皇紀1996)延元元年/建武3年、戦火により焼失する
現在でも、多数の遺構が残り、瓦・陶磁器などが多く出土している
本堂跡は、雨神社と如意ヶ岳山頂の間のやや南の地点、標高415m
東西30m、南北40m程度の平坦地で、北・東・西は崖に囲まれ、南側は谷になっている
<池ノ谷地蔵>
山頂付近より北上、または、比叡平より南下したあたりにある
高さ1.5mほど
かつて、この辺りの崖下に池があったといわれ、「池地蔵(いけのじぞう)」とも称される
病気回復や商売繁盛で信仰を集めている
境内には「薬草園」があり、多種の薬草が植えられている
<雨神社>
池ノ谷地蔵と如意ヶ岳山頂の間にある
「京都坊目誌」によると、岡崎神社の末社とされ、大山祇命などが祀られている
かつては、「赤龍社」「龍王社」「龍王祠」「龍王宮」などと称される社がり、如意寺の鎮守社であった
<八神社>
天之御中主神、高皇産霊神など宮中八神が祀られている
浄土寺村の地主神、浄土寺の鎮守社
空海が比叡山に登るときに立ち寄ったといわれる
<行者の森の碑>
<指定地区>
風致地区特別修景地域
大文字山歴史的風土保存地区
レクリエーションの森(東山風景林)
東山鳥獣保護区
銀閣寺山国有林
<名前の由来>
「諸社根元記」によると
「日神岩戸を出てさせたまひてその御光顕れ出てたりけるを、八百万神悦びて皆意のごとくなると宣ひしより如意山と名付く」と
記されている
<如意ヶ嶽の戦い>
1509年(皇紀2169)永正6年7月4日の夜半に、如意ヶ岳を舞台に行われた大規模な合戦