鴻臚館(こうろかん)は、平安時代に平安京にあった外国使節を宿泊、接遇する施設
奈良時代以前から前身として、筑紫館や難波館があった
現代では、京都御苑内に国立京都迎賓館がある
平安京では、七条に朱雀大路を挟んで東鴻臚館・西鴻臚館があった
現在の島原に東鴻臚館跡の石碑が
七条通の京都市中央卸売市場第一市場南に西鴻臚館跡の案内板が立っている
鴻臚館は、外国使節を宿泊、接遇する施設として、平安京遷都とともに早々に起工される
当初は、羅城門の北、朱雀大路の左右の二ヶ所の東西大宮に設けられていた
治部省被管の玄蕃寮(げんばりょう)に属し、唐の鴻臚寺の制度を参考にしたといわれる
本来は、迎える国別に館舎が設けられていたといわれる
東寺、西寺の建立にあたり、七条の北(現在のJR丹波口駅の南東附近)へ移転される
平安京の鴻臚館は、主に朝鮮半島の友好国 渤海国(ぼっかいこく)の使節団を迎賓していた
朝廷では、日本の国威を示すために、渤海客を大いに歓待し、林邑楽を演奏したり詩文の交歓の会などを催していたといわれる
当初は、6年毎に行われていたといわれ、通算20から30回ほど行われたといわれる
<敷地>
東西共にほぼ同じ規模で、南北84丈(約250m)、東西40丈(約121m)あった
<使節団>
使節団(大使・副使・判官・録事・訳語ら)は、100人ほどが船で入国し、騎馬により入京し、鴻臚館に宿泊した
使節団には領客使が対応した
大極殿で天皇に拝謁し、渤海国王の国書を奉呈、土産品を献上した
豊楽殿では歓迎の宴が催され、鴻臚館では使節団と日本側の貴族との交流、詩会などが行われていた
渤海使節団は、能登客院(石川県志賀町)や松原客院(福井県敦賀市)から近江や山科を経由して都に入り、
鴻臚館で入朝の儀を行った後、内蔵寮と交易したといわれる
朝廷からは、越前国、能登国、越中国などの諸国に対して、酒・肉・魚などの食材を送るように命じている
使節団が通る道に建つ官舎、道路、橋などの整備と、道端に放置された死骸の埋葬も指示された
<名前の由来>
中国の外交施設だった鴻臚寺に由来する
「鴻」は、大きな鳥の鴻から、大きいという意味がある
「臚」は、腹の意から転じて、伝え告げるいう意味がある
「鴻臚」という言葉は、外交使節の来訪を告げる声を意味していた
<石碑「此附近 東鴻臚館址」>
下京区西新屋敷揚屋町の島原の角屋の北に立てられている
1915年(皇紀2575)大正4年に立てられた
東鴻臚館跡は、江戸時代には、もてなしの文化の場でもある島原の地となっている
石碑は、東鴻臚館推定跡地からは、北方約100mに位置する
<説明板「西鴻臚館跡」>
下京区朱雀堂ノ口町、京都市中央卸売市場第一市場の前に立てられている
西鴻臚館は、平安京右京七条一坊三・四町、
現在の京都市卸売第一市場(下京区朱雀堂ノ口町、宝蔵町、北ノ口町)付近にあった
説明板は、西鴻臚館推定跡地の南東隅に位置する
<西鴻臚館跡発掘調査>
区画溝跡が検出される
平城宮・難波宮・長岡宮など旧都からの搬入瓦や銭貨、土師器、須恵器、輸入陶磁器などが出土した
<与謝蕪村の歌>
「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている
<源氏物語第1帖「桐壺」>
鴻臚館に滞在していた高麗の人相占いのもとへ、素性を隠した桐壺帝が、光源氏を使わして占ってもらっている
内裏には、外国人を招き入れることが禁じられていたため、鴻臚館を訪問している
「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにで見れば、乱れ憂ふることやあらむ。
朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方に見れば、またその相違ふべし」と、
准太上天皇になるとの予言を得た様子が書かれている