地図情報
角屋(すみや)は、島原花屋町通下ルにある揚屋の遺構
島原の創建当初から建物と家督が維持され続けている、揚屋建築の唯一の遺構
揚屋には、太夫・芸妓などはおらず、置屋から芸妓等を呼んで宴席を設けている
角屋は、揚屋建築の特徴が備わっている
建物は、通りに面する表棟と、中庭を挟んで建つ奥棟からなり、玄関部分でつながっており1棟となっている
<角屋(すみや)1棟(重要文化財)>
木造2階建て
揚屋町の通りに東面して建つ
1641年(皇紀2301)寛永18年頃の建立
1952年(皇紀2612)昭和27年3月29日 重要文化財に指定される
数寄屋造
七宝焼の釘隠しや青貝の螺鈿・繊細な障子桟などの意匠となっている
格子造り
表棟は、京町家の格子造りになっており、間口31.5mもある
壁
赤壁・白漆喰壁、黄色の大津磨き壁・浅葱色の九条土壁・淡い茶褐色の聚楽土壁など、
社寺の書院・客殿に使用されている高級壁が使われている
表棟1階
中央やや南寄りに入口がある
入口を入ると、狭い中庭を介して正面に内玄関、右手に玄関がある
室内は、蝋燭を灯す燭台や灯油の行灯が用いられていたため、真っ黒に煤けている
網代の間(あじろのま)
最も北にある28畳の2番目に大きなお座敷
床・棚・附書院がある、天井が網代状に組まれている
西側の中庭を眺めながら遊宴できる造りになっている
その他には、女仕事部屋・仲居部屋・男部屋・四畳半・七畳半2室などがある
奥棟1階
内玄関を入り、通り土間・板の間・台所・帳場・茶室などがある
茶室は、2畳台目中板
正面の内玄関を入った奥棟部分の北側にある
台所
寺院の庫裏と同じ規模があり、料理が作られる
調理場には、大きな竈が並び、向かい側に流し台や井戸がある水屋が置かれている
配膳場は50畳ほどの広さがあり、料理が盛り付けられ、それぞれのお座敷へと運ばれる
帳場では、全て掛け払いとされる代金やお客の好みなどが記録される
2階には、お座敷が十数部屋ある
北から、緞子の間(23畳、床・棚・附書院つき)、翠簾口之間(みすくちのま)(12畳)、
翠簾之間(10畳、床・棚つき)、扇之間(21畳、押入つき)があり、
翠簾口之間の西に、草花之間(6畳)、その西、奥棟との取合部に馬之間(9畳)がある
2階の奥棟部分には、三畳長畳、孔雀之間(4畳半)、八景之間(6畳)、梅之間(10畳半)、
囲之間(床付)、水屋(押入付)があり、
奥の西側には南に、青貝の螺鈿をちりばめた青貝之間(17畳、床・棚、露台(ベランダ)付)、
北に、檜垣之間(14畳、床2か所・棚・押入つき)などがある
附指定:曲木亭 1棟
附指定:屋舗売渡状 1枚
附指定:茶室 1棟
附指定:待合1棟
附指定:東奥蔵1棟
附指定:西奥蔵1棟
附指定:台所蔵1棟
附指定:棟札 5枚
附指定:板絵図 1枚
附指定:古図 2枚
<松の間>
主屋西面北寄りに建つ離れ
43畳の最も広い大座敷がある
主庭を眺めることができる
新選組初代筆頭局長の芹沢鴨が暗殺される日の夜に宴会を行っていた部屋
酒に酔い八木邸に帰宅して寝ていたところを暗殺されたといわれている
木造平屋建、瓦葺一部鉄板葺、建築面積112m2
<主庭(京都市指定名勝)>
松の間の大座敷に前にある広い庭
屈曲蛇行した長い枝の松「臥龍松(がりょうのまつ)」が生育していたが枯れてしまい、現在は2代目
大広間から見える臥龍松を題材にした美術作品が多く残されている
「都林泉名勝図会」に掲載されたり、浮世絵にも描かれたりしていた名所
<中庭>
大きな鞍馬石や、滑車が織部焼で作られた飾り井戸がある
<お茶席>
揚屋の広庭には、必ずお茶席が立てられている
角屋には3つの茶室がある
臥龍松の横に「曲木亭」、その奥に「清隠斎茶席」、臥龍松の左手に「囲の間」がある
<紙本金地墨画淡彩 紅白梅図 四曲屏風一隻(重要文化財)>
与謝蕪村の筆
江戸時代中期には、島原でも俳諧が盛んだった
七代目角屋当(俳名徳屋)は、与謝蕪村を師として招いていた
6面の一連の襖絵であったといわれる
それぞれ幅約92cmの襖三面ずつを改装したものといわれる
1983年(皇紀2643)昭和58年6月6日 重要文化財に指定される
<紙本金地墨画淡彩 紅白梅図 襖貼付4面(重要文化財)>
与謝蕪村の筆
6面の一連の襖絵であったといわれる
それぞれ幅約92cmの襖三面ずつを改装したものといわれる
1983年(皇紀2643)昭和58年6月6日 重要文化財に指定される
<岸駒の作品>
角屋では、上京してきた新人画家岸駒を支援しており、
天明年間(1781年〜1789年)以降の改装・増築のとき、襖・屏風・衝立・掛幅などの制作にも全面的に係わった
「松虎図」、茶室水屋の板戸「墨梅図」、青貝の間襖6面「山水図」、6曲1双屏風「松竹梅図」
<岸岱の作品>
岸駒の長男、岸派の2代目
岸駒との父子合作の扁額「前赤壁図」扁額、掛幅の「孔雀図」
<岸良の作品>
岸駒の娘婿
衝立に「布袋図」「花車図」、6曲1双屏風に「牡丹孔雀図」「滝虎図」、掛幅では大幅「関羽像」や「柘榴鸚鵡図」等が現存している
<岸連山の作品>
岸駒の孫娘春の婿養子
6曲1隻屏風「孔雀図」、松の間の襖絵「桐鳳凰図」
<襖絵>
円山応挙、石田幽汀などの襖絵も残っている
<送り込み制>
太夫や芸妓を抱えて揚屋に派遣する置屋と、
置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、お客さんに歌舞音曲の遊宴を楽しんでもらう揚屋との分業制
現在の花街に、「お茶屋(宴席)」と「置屋(芸妓・舞妓を抱える店)」の制度として残る
吉原などの遊廓は、自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行っていたことから「居稼ぎ制」と称される
<揚屋(あげや)>
角屋は、置屋ではなく揚屋だった
置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、料理を出して遊宴を楽しんでもらう、現在の料亭、料理屋にあたる
江戸時代には、民間の宴会場、お茶会や句会なども行われて、文化サロンとなっていた
揚屋建築には、大座敷に面した広庭にお茶席があり、大規模な台所あった
間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階が台所や居住部分とされて、
二階を主たる座敷として、お客さんを二階に揚げることから「揚屋」と称されるようになった
1757年(皇紀2417)宝暦7年以降
揚屋は、島原と大坂の新町のみとなる
隣接地が買い増され、ほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備えるようになる
揚屋では「一見さん お断り」で、支払いは「つけ(掛売り)」のみで、現金決済は行われていなかった
<お茶屋業>
角屋は、1872年(皇紀2532)明治5年までは、揚屋として営業されていたが、
それ以降は、お茶屋業として、「松の間」において宴会業務が行われていた
<かしの式>
太夫が一人一人、お客と対面する「顔見せ」の儀式
太夫は、言葉をしゃべる事は許されず、仕種と立ち振る舞いとまなざしでアピールする
<勤王の志士>
幕末維新
木戸孝允・西郷隆盛・坂本龍馬・久坂玄瑞などの勤王の志士が密議を交わしたり、
豪商からの資金調達のために接待に使用されていた
<石碑「久坂玄瑞の密儀の角屋」>
角屋の前の通りの角に石碑が立てらえている
<芹沢鴨の刀傷>
1863年(皇紀2523)文久3年6月
新選組も、角屋での遊興を楽しんだおり、芹沢鴨が暴れ、そのときの刀傷が残されている
<角屋もてなしの文化美術館>
1998年(皇紀2658)平成10年4月の開館
角屋の建物と所蔵美術品等の展示・公開が行われている
所蔵品は約1万1千点以上ある
<輪違屋>
同じ島原にある置屋・お茶屋
現在全国で唯一、太夫をかかえている