角屋(すみや)

角屋(すみや)は、島原花屋町通下ルにある揚屋の遺構

所在地:京都市下京区西新屋敷揚屋町   地図情報

国の重要文化財

 角屋(すみや)は、島原花屋町通下ルにある揚屋の遺構

 島原の創建当初から建物と家督が維持され続けている、揚屋建築の唯一の遺構

 揚屋には、太夫・芸妓などはおらず、置屋から芸妓等を呼んで宴席を設けている

【角屋の歴史・経緯】




【角屋】

 角屋は、揚屋建築の特徴が備わっている

 木造2階建て
 揚屋町の通りに東面して建つ

 建物は、通りに面する表棟と、中庭を挟んで建つ奥棟からなり、玄関部分でつながっており1棟となっている

 <大座敷>
 室内は、蝋燭を灯す燭台や灯油の行灯が用いられていたため、真っ黒に煤けている

 網代の間(あじろのま)
 手前にある28畳の2番目に大きなお座敷
 天井が網代状に組まれている
 西側の中庭を眺めながら遊宴できる造りになっている

 松の間
 奥にある、43畳の最も広い大座敷
 主庭を眺めることができる
 新選組初代筆頭局長の芹沢鴨が暗殺される日の夜に宴会を行っていた部屋
 酒に酔い八木邸に帰宅して寝ていたところを暗殺されたといわれている

 2階にはお座敷が十数部屋ある

 <主庭(京都市指定名勝)>
 松の間の大座敷に前にある広い庭
 屈曲蛇行した長い枝の松「臥龍松(がりょうのまつ)」が生育していたが枯れてしまい、現在は2代目
 大広間から見える臥龍松を題材にした美術作品が多く残されている
 「都林泉名勝図会」に掲載されたり、浮世絵にも描かれたりしていた名所

 <中庭>
 大きな鞍馬石や、滑車が織部焼で作られた飾り井戸がある

 <お茶席>
 揚屋の広庭には、必ずお茶席が立てられている
 角屋には3つの茶室がある
 臥龍松の横に「曲木亭」、その奥に「清隠斎茶席」、臥龍松の左手に「囲の間」がある

 <台所>
 寺院の庫裏と同じ規模の台所があり、料理が作られる
 調理場には、大きな竈が並び、向かい側に流し台や井戸がある水屋が置かれている
 配膳場は50畳ほどの広さがあり、料理が盛り付けられ、それぞれのお座敷へと運ばれる
 帳場では、全て掛け払いとされる代金やお客の好みなどが記録される

 <数寄屋造
 七宝焼の釘隠しや青貝の螺鈿・繊細な障子桟などの意匠となっている

 <格子造り>
 表棟は、京町家の格子造りになっており、間口31.5mもある

 <壁>
 赤壁・白漆喰壁、黄色の大津磨き壁・浅葱色の九条土壁・淡い茶褐色の聚楽土壁など、
社寺の書院・客殿に使用されている高級壁が使われている

 <表棟1階>
 中央やや南寄りに入口がある
 入口を入ると、狭い中庭を介して正面に内玄関、右手に玄関がある
 入口の左手(南)に男部屋、右手(北)に仲居部屋、女部屋などがある
 最も北には天井を網代とした「網代の間」がある

 <奥棟1階>
 内玄関を入り、通り土間、板の間、台所、帳場、茶室などがある

 <表棟2階>
 北から南へ「緞子の間(どんすのま)」「翠簾口の間(みすぐちのま)」「翠簾の間」「扇の間」がある

 <奥棟2階>
 「檜垣の間」、青貝の螺鈿をちりばめた「青貝の間」などがあり、「青貝の間」には露台(バルコニー)もある





【文化財】

 <国の重要文化財>
 島原の創建当初から建物と家督が維持され続けている、揚屋建築の唯一の遺構
 1952年(皇紀2612)昭和27年に指定される
 附(つけたり)として、曲木亭・茶室・待合・東奥蔵・西奥蔵・台所蔵・棟札5枚・板絵図1枚・古図2枚・屋舗売渡状1枚が
指定されている

 <屏風「紅白梅図」(重要文化財)>
 与謝蕪村の筆
 江戸時代中期には、島原でも俳諧が盛んだった
 七代目角屋当(俳名徳屋)は、与謝蕪村を師として招いていた

 <岸駒の作品>
 角屋では、上京してきた新人画家岸駒を支援しており、
 天明年間(1781年〜1789年)以降の改装・増築のとき、襖・屏風・衝立・掛幅などの制作にも全面的に係わった
 「松虎図」、茶室水屋の板戸「墨梅図」、青貝の間襖6面「山水図」、6曲1双屏風「松竹梅図」

 <岸岱の作品>
 岸駒の長男、岸派の2代目
 岸駒との父子合作の扁額「前赤壁図」扁額、掛幅の「孔雀図」

 <岸良の作品>
 岸駒の娘婿
 衝立に「布袋図」「花車図」、6曲1双屏風に「牡丹孔雀図」「滝虎図」、掛幅では大幅「関羽像」や「柘榴鸚鵡図」等が現存している

 <岸連山の作品>
 岸駒の孫娘春の婿養子
 6曲1隻屏風「孔雀図」、松の間の襖絵「桐鳳凰図」

 <襖絵>
 円山応挙石田幽汀などの襖絵も残っている




島原

 <送り込み制>
 太夫や芸妓を抱えて揚屋に派遣する置屋と、
 置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、お客さんに歌舞音曲の遊宴を楽しんでもらう揚屋との分業制

 現在の花街に、「お茶屋(宴席)」と「置屋(芸妓・舞妓を抱える店)」の制度として残る

 吉原などの遊廓は、自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行っていたことから「居稼ぎ制」と称される

 <揚屋(あげや)>
 角屋は、置屋ではなく揚屋だった
 置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、料理を出して遊宴を楽しんでもらう、現在の料亭、料理屋にあたる
 江戸時代には、民間の宴会場、お茶会や句会なども行われて、文化サロンとなっていた
 揚屋建築には、大座敷に面した広庭にお茶席があり、大規模な台所あった

 間口が狭く、奥行きのある小規模の建物であったため、一階が台所や居住部分とされて、
二階を主たる座敷として、お客さんを二階に揚げることから「揚屋」と称されるようになった

 1757年(皇紀2417)宝暦7年以降
 揚屋は、島原と大坂の新町のみとなる
 隣接地が買い増され、ほとんどが一階を主たる座敷にして大座敷や広庭を備えるようになる

 揚屋には「一見さん」は入れず、支払いは「つけ(掛売り)」のみで、現金決済は行われていなかった

 <お茶屋業>
 角屋は、1872年(皇紀2532)明治5年までは、揚屋として営業されていたが、
 それ以降は、お茶屋業として、「松の間」において宴会業務が行われていた

 <かしの式
 太夫が一人一人、お客と対面する「顔見せ」の儀式
 太夫は、言葉をしゃべる事は許されず、仕種と立ち振る舞いとまなざしでアピールする



【その他】

 <勤王の志士>
 幕末維新
 木戸孝允西郷隆盛坂本龍馬・久坂玄瑞などの勤王の志士が密議を交わしたり、
豪商からの資金調達のために接待に使用されていた

 <石碑「久坂玄瑞の密儀の角屋」>
 角屋の前の通りの角に石碑が立てらえている

 <芹沢鴨の刀傷>
 1863年(皇紀2523)文久3年6月
 新選組も、角屋での遊興を楽しんだおり、芹沢鴨が暴れ、そのときの刀傷が残されている

 <角屋もてなしの文化美術館
 1998年(皇紀2658)平成10年4月の開館
 角屋の建物と所蔵美術品等の展示・公開が行われている
 所蔵品は約1万1千点以上ある

 <輪違屋
 同じ島原にある置屋・お茶屋
 現在全国で唯一、太夫をかかえている

【角屋へのアクセス】

 JR山陰本線(嵯峨野線) 口丹波駅 徒歩約5分
 市バス 島原口 徒歩約10分


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