河原院跡(かわらのいんあと)は、平安時代中期、嵯峨天皇皇子 左大臣 源融が隠棲した
邸宅「六条河原院」の跡地
木屋町通五条下ルには、「此附近源融河原院址」と記された石碑が立つ
<源氏物語>
河原院は、「源氏物語」21帖「少女」の巻において、光源氏が造営した六条院のモデルとなったといわれる
<今昔物語>
源融が亡くなると、奇怪な噂にまつわられ「物の怪屋敷」と称されるようになり
源融の息子 源昇により、邸宅が宇多上皇に献上されるが、源融の亡霊がたびたび現れるようになり、
宇多上皇の愛妃もこの邸宅でたびたび物の怪に襲われたといわれる
その後、邸宅は荒れ果てていったといわれる
<籬の森(まがきのもり)>
「昭和京都名所図絵」によると、
明治時代初期までは、この辺り一帯は「籬の森」と称される森だったといわれる
河原院内の庭園の中の島「籬ノ島」が、鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったものといわれる
石碑の横には、榎の老木が1本だけ、森だった名残として残っている
<発掘調査>
1994年(皇紀2654)平成6年
京都市埋蔵文化財研究所によって、河原院の庭園の池の跡と推定される一部が発掘されている
左京六条四坊十一町(現在の五条通富小路の北側)とされる
<千喜万悦天満宮>
<高市稲荷神社>
<極楽寺>
<金光寺>
<西念寺>
<浄運院>
<上徳寺>
<新善光寺>
<宗仙寺>
<荘厳寺>
<竹林院>
<等善寺>
<徳林院>
<福田寺>
<白毫寺>
<本覚寺>
<萬年寺>
<蓮光寺>