ずいき祭(瑞饋祭)(ずいきまつり)は、北野天満宮の10月の例祭
北野の神霊(天神様)(菅原道真)を、10月1日〜4日まで西ノ京の御旅所へお迎えして、
その年に収穫された豆穀・蔬菜・果瓜を使った神輿を奉納し五穀豊穣を感謝するお祭
「ずいき祭(ずいきまつり)」は、小芋の茎である芋茎(ずいき)で大小2基の神輿の屋根を葺くことに由来する
10月4日の還幸祭は「おいでまつり」とも称され、
「菅原道真の神霊が、大宰府から北野の地に初めておいでになる」という由来を再現するという意味もあり、
氏子地区では、親類縁者を招いてご馳走を作り、晴れ着をきて行列を迎え、お神輿を拝んだりしたといわれる
<神幸祭(しんこうさい)>
10月1日
9:30頃 出御祭
3基の鳳輦(ほうれん)に神霊が移される
13:00頃 行列出発
導山や鳳輦と松鉾などが、約150人が祭列を整え北野天満宮を出発し、氏子地区を巡行して御旅所へ向かう
16:00頃 着御祭(御旅所)
ずいき御輿が作られ安置されている
八乙女田舞(やおとめたまい)が奉納される
鳳輦は、4日の還幸祭まで、御旅所に安置される
<献茶祭>
10月2日 10:00頃
御旅所にて、表千家家元により奉仕される
<甲御供奉饌(かぶとのごくほうせん)>
10月3日 15:00頃
御旅所にて、西ノ京七保会により奉仕される
<還幸祭(かんこうさい)>
10月4日
9:30頃 出御祭(御旅所)
13:00頃 行列出発(御旅所)
鳳輦とずいき御輿が、それぞれ異なった経路で巡行に出発する
氏子区内では、ご馳走や晴れ着を着て出迎え、上七軒では、舞妓さん・芸妓さんが表に立たれる
ずいき御輿は御旅所へ戻り、還幸行列は北野天満宮の境内へ進む
17:00頃 着御祭(北野天満宮)
本殿前に鳳輦などが置かれ、門を閉めた後で神事(御霊返し)が行われる
<后宴祭(ごえんさい)>
10月5日
14:30頃 拝殿前にて、八乙女田舞が奉納される
4日12:30頃に、還幸行列が、御旅所から出発し氏子区内を巡行し、北野天満宮へ還っていく
還幸行列の全てが見られるのは、上七軒通の東門までで、第一列は、東門より別経路で戻る
ずいき神輿は、還幸行列とは異なる経路を巡行して御旅所へ戻る
御旅所〜御前下立売通までは、ずいき神輿と還幸行列が順番に見られる
<獅子舞>
赤青の二頭の獅子が舞う
<太鼓>
<先駆神職>
<御榊>
<導山(みちびきやま)>
道案内の神さんとされる猿田彦大神が乗る
<梅鉾>
<松鉾>
梅鉾・松鉾は、北野天満宮本殿前の左近の梅・右近の松にちなむもの
平岡八幡宮で行われるような「剣さし」ではなく、2基の「荷鉾(にないぼこ)」で渡御する
<御鉾・御盾・錦蓋・管蓋>
途中、円町の南に下がった地点で、八乙女・稚児裃・童子・汗衫・水干・半尻などが加わる
<八乙女>
<稚児裃(ちごかみしも)>
<童子>
<御羽車(おはぐるま)>
<御剣・御弓・御盾>
<楽人付太鼓と鉦>
<神職先導>
<汗衫>
<第一鳳輦(ほうれん)>
輦(れん)とは、神事などで行幸される神霊や天皇の乗り物のこと
鳳輦には、屋形の上に鳳凰(ほうおう)が載っている
<紫翳・御幣・柳箱>
<水干>
<葱華輦(そうかれん)>
屋上に、葱の花の飾りがが載っている
<紫翳・御幣・柳箱>
<半尻>
<第二鳳輦(ほうれん)>
屋形の上に鳳凰が載っている
<紫翳・御幣・柳箱>
<宮廷馬車>
<後駆神職>
ずいき御輿は、里芋の茎である「ずいき」で屋根を葺くことから名付けられたといわれる
西ノ京の神人(じにん)(神社に所属する神職や職員)により、御旅所で作られ10月4日に巡行する
<ずいき御輿の材料>
御輿の前後に真紅(しんく)を4本取付けられる
真紅は、千日紅(せんにちこう)の赤花12,000個を糸に通して巻きつけ、白花で天満宮の字が入れられ
鈴が3つ付け、縄で編んだ神紋(しんもん)(梅鉢紋)を付けられる
瓔珞(ようらく)は、珠玉や貴金属を糸に通して作った装身具で、
平瓔珞(ひらようらく)は麦わら細工で、隅瓔珞(すみようらく)は赤茄子・唐辛子を細工して作られる
四隅にさがる瓔珞は、乾燥した金盞花(きんせんか)の花がびっしりと付けられている
四本柱の獅子(しし)は、根の付いたサトイモの親芋を彫刻して作られる
その他の部分にも、野菜・乾物・海苔・蔬菜(そさい)・京湯葉・麩(ふ)・果物など五穀が使われている
神輿の四面には、謡曲や昔話を題材にした人物花鳥獣類が新穀で飾り付けられている
材料の野菜や草花は、その年の8月から9月にかけて収穫されたもの
装飾物にされた穀物類は、祭礼の翌日に、神輿関係の各戸へ配られる
<経緯>
慶長年間(1596年〜1615年)
かって北野祭(例祭)にお供えされた野菜を、一基の大型神輿として作り飾りつけるようになる
1702年(皇紀2362)元禄15年
かつては、八角形の葱華輦型(そうかれんがた)だったが、六方鳳輦型(ほうれんがた)に変る
1802年(皇紀2462)享和2年
四方千木型に変わる
その後、一時中絶される
1890年(皇紀2550)明治23年
復活し、現在の形になったといわれる
かつては、8基ほどのずいき御輿があったといわれる
現在は、西ノ京の2基のみ、ずいき御輿保存会に出される
棚倉孫神社など地方でも、ずいき神輿が作られる
10月3日 15:00頃
御旅所にて、西ノ京七保会により奉仕される
<経緯>
1527年(皇紀2187)大永7年
阿波の三好長基が京都に攻め入った時、将軍 足利義晴の管領 細川高国が桂川で阻止しようとするが敗退する
が、入洛していた越前守護職 朝倉敏景が、西ノ京の神人と協力して三好勢を阿波に追い返した
将軍 足利義晴は、神人の功を賞し、3月3日と9月9日を吉例の日として、北野天満宮に甲の御供をしたという
以来、神人は、年2度の甲の御供を、安楽寺一ノ保御供所にて調製し献供してきた
1873年(皇紀2533)明治6年
神人の御供所が廃されたのに伴い中絶される
1907年(皇紀2567)明治40年10月3日
西ノ京七保会(旧神人)により復興され、御旅所にて、献供されるようになる