妙覚寺(みょうかくじ)は、西陣織の職人や芸術家に深い信仰を得ている寺院
斎藤道三、織田信長父子、千利休、伊達政宗などとゆかりの深い寺院
妙顕寺・立本寺とともに「三具足山」と称される
最盛期には、塔頭100余り、全国に末寺が1,000ヶ寺を擁したといわれる
<本堂(京都府指定有形文化財)>
本尊の十界大曼荼羅が安置されている
斉藤道三の自筆の遺言状がある
<祖師堂(京都府指定有形文化財)>
境内の中央の参道の突き当たりにたつ
中央に日蓮、左に日朗、右に日像上人が祀られている
後光厳天皇により、日蓮には「大菩薩」、日朗と日像上人には「菩薩」の号が与えられ、「三菩薩」と称される
<華芳塔堂(かほうとうどう)(京都府指定有形文化財)>
本堂の北にたつ
堂内に、精巧な木造多宝塔があり、その中に石塔が納められている
宝塔の扉絵は、狩野派により描かれたもの
石塔は、延暦寺で修行をしていた日蓮が、密かに法華経を写経して石塔に納めて宗旨建立を誓願したときのものといわれる
1571年(皇紀2231)元亀2年
織田信長が比叡山全山を焼き討ちにしたときに、付近に住んでいた山本修理亮(やまもとしゅりすけ)が、
石塔を見つけ妙覚寺に納めたといわれる
<華宝宝塔(京都府指定有形文化財)>
<大門(だいもん)(京都府指定有形文化財)>
上御霊前通に面した表門
三間一戸、本瓦葺、切妻造、薬医門
1663年(皇紀2323)寛文3年
豊臣秀吉が、1590年(皇紀2250)天正18年に建てた聚楽第の裏門を移築する
城門であったため、左右に両潜扉(りょうくぐりとびら)が付けられた長い袖塀がある
梁の上には、伏兵のできる空間がある
本柱筋にのる大きな板蟇股の内部に、外側に上巻渦、内側に上下二段に大きな下巻渦の文様がついている
数少ない聚楽第の遺構として貴重なもの
大門の左側に、樹齢30〜40年の枝垂桜、右側にはモチノキがある
<境外墓地>
妙覚寺の北西、小川通に面した飛び地にある
日蓮・日像上人・日朗の三菩薩題目笠塔婆がたつ
狩野元信、狩野永徳などの狩野家一族のお墓
樂焼家元の樂家、茶人 久田一族のお墓がある
<法姿園>
本堂の前庭、中庭、奥庭の3つの趣が異なった庭の総称
「おもしろや 散るもみぢ葉も咲く花も おのずからなる法のみ姿」という古歌にちなみ名付けられたといわれる
前庭
正面の唐門と大塀に囲まれた方形の庭
楓を中心に、松、桜が植えられ、一面を杉苔が覆っている
中庭
本堂と書院との間にある方形の50坪ほどの庭
樹齢100年ほどの五葉松と、赤松、ヒバの3本の樹がたつ
奥庭
石庭をおいた、露地風の植え込みの奥に蹲踞(つくばい)を置いた茶庭
<天文法難殉教碑>
天文法華の乱の犠牲者の供養碑
<開山 日像菩薩碑>
<宗祖大菩薩碑>
<浄行菩薩堂跡碑>
妙覚寺には、塔頭が三院ある
<善明院>
<實成院>
<玉泉院>
<木造 日蓮坐像(重要文化財)>
日蓮聖人の肖像彫刻
像内躰部に、法印院興作の銘がある
像内頭部に、貼付されている曼荼羅本尊に日像(花押)の記がある
身延山で日蓮聖人に給仕していた日像上人の発願により作られたといわれる
左手に経巻、右手に扇子を持った説法形式の等身大の坐像
この像を手本として、説法形式の祖師像が定型化したといわれる
2019年(皇紀2679)令和元年7月23日 重要文化財に指定される
<日像菩薩像>
等身大
法衣や袈裟などの彩色など桃山時代の作風
<日朗菩薩像>
等身大
法衣や袈裟などの彩色など桃山時代の作風
<日蓮筆盂蘭盆御書(重要文化財)>
日蓮の筆
<斎藤道三遺言状>
1556年(皇紀2216)弘治2年4月19日
斎藤道三が、息子の19世 観照院日饒に宛てた自筆の遺言状
「美濃一国譲り状」と称される
翌20日
斎藤道三は、息子 斉藤義龍と戦い、長良川畔で死去する
<斎藤利政(斎藤道三)>
11歳の春に、妙覚寺で得度を受けて「法蓮房」と名乗り僧侶となった