光仁天皇(こうにんてんのう)

奈良時代の第49代天皇

生年:709年(皇紀1369)和銅2年10月13日
崩御:781年(皇紀1441)天応元年12月23日
宝算:73

父親:施基親王(志貴皇子)(天智天皇の第7皇子)
第6皇子
母親:紀橡姫(きのとちひめ)(贈太政大臣 紀諸人の娘)

諱:白壁(しらかべ)
和風諡号:天宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)
別称:後田原天皇

立太子:770年(皇紀1430)神護景雲3年
即位:770年(皇紀1430)神護景雲3年10月1日
退位:781年(皇紀1441)天応元年4月3日

先代:称徳天皇
次代:桓武天皇

皇后:井上内親王(聖武天皇の皇女)
皇子:他戸親王など

皇太夫人:高野新笠
皇子:山部親王(後の桓武天皇)、早良親王など

陵墓:田原東陵(たわらのひがしのみささぎ)(奈良市日笠町)

 光仁天皇(こうにんてんのう)は、奈良時代の第49代天皇

 度々の政変で、天武天皇系の皇族が少なくなり、政権争いを避けていた天智天皇の孫の親王が即位

 皇后が天武天皇の孫娘 井上内親王で、皇太子 他戸親王も天武天皇系とされるが、
二人とも反逆したとされ廃され、天武天皇系は途絶え、皇統は天智天皇系となる

【光仁天皇の歴史・経緯】

【光仁天皇の事績】

 奈良時代に多く発生した政争により、膨大になった律令制の整理が行われ、
 不必要な令外官(りょうげのかん)を廃止して綱紀粛正を図り、
 軍団と兵士の制を縮小するなどして財政の緊縮にも努め、
 次の代の桓武天皇平安時代の基礎が築かれた

 仏教偏重の政治を改め、
 道鏡を、下野(しもつけ)薬師寺別当に左遷し  和気清麻呂を配流先から都に戻す
 虚弱な兵士に代えて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する

 東北地方の支配の拡大も図る

【光仁天皇ゆかりの地】

 <高山寺
 774年(皇紀1434)宝亀5年
 光仁天皇の勅願で、華厳宗の寺として「神願寺都賀尾坊(しんがんじとがのおぼう)」が創建される


 <三室戸寺
 770年(皇紀1430)宝亀元年
 宮中の奇瑞に、ここの山奥の志津川上流の渓流から金銅の二臂千手観音菩薩が出現したといわれ、
 光仁天皇の勅願により、南都 大安寺の僧 行表が、宇治の離宮へ御室を移してその観音菩薩を祀り、
「御室戸寺」と号したのが由来といわれる



 <月輪寺
 781年(皇紀1441)天応元年
 光仁天皇の勅命により、慶俊僧都(けいしゅん)が、和気清麻呂とともに愛宕山を中興する
 このとき、唐の五台山にならって、5ヵ所の峰にそれぞれ寺院が置かれた
  朝日峰の白雲寺、大鷲峰の月輪寺、高雄山の神願寺(神護寺)、龍上山の日輪寺、鎌倉山(賀魔蔵山とも)の伝法寺

 このとき、地中から出土した宝鏡の裏に「奇観自在、照体普弥綸、仏祖大円鑑、人天満月輪」の銘があったため、
寺号を月輪寺とされる
 以後、光仁天皇の勅願所になる


 <護浄院
 光仁天皇が、皇子 開成親王(桓武天皇の兄)が摂津国 勝尾山の修業中に感得して自ら刻んだ三宝大荒神を本尊として、
勝尾山に寺院を創建する

【その他】

 <即位の経緯>
 先代の称徳天皇は、生涯独身で崩御され、皇子はいなかった

 度重なる政変による粛清によって、天武天皇の嫡流にあたる男系皇族も少なくなっていた

 聖武天皇の皇女 井上内親王と、白壁王との間に生まれた他戸親王が、天武天皇系の皇族とされ、
 称徳天皇の遺宣(遺言)に基づいて、白壁王の立太子が行われる

 「続日本紀」によると
 左大臣 藤原永手、右大臣 吉備真備、参議 藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、
近衛大将 藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたとされる

 この協議で、天武天皇系の長親王の子 文室浄三、次いでその弟 大市を推した吉備真備と、
 白壁王を擁立する藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、
 藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したといわれる

【光仁天皇の御陵】

 <陵(みささぎ)>
 宮内庁により、奈良市日笠町にある田原東陵(たはらのひがしのみささぎ)に治定されている
 形式は円丘
 遺跡名は「田原塚ノ本古墳」

 崩御の翌年、広岡山陵に葬られ
 4年後に、田原陵に改葬された


【京都検定 第16回1級】

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