武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)は、平安時代末期の僧兵、源義経(牛若丸)の従者
比叡山延暦寺で修行した僧で、大柄の怪力で武術に強かった
五条大橋で源義経(牛若丸)と出会い、闘いに負け従者となり、生涯忠誠を尽くす
平家打倒に功績を残すが、源義経とともに都落ちして、奥州国平泉で闘死する
<平家物語>
鎌倉時代初期の軍記物語
作者不詳・全12巻
源義経の従者として登場する
<「玉葉」>
平安時代末期の1164年(皇紀1824)長寛2年から、鎌倉時代初期の1200年(皇紀1860)正治2年にかけて執筆された日記
作者:公家 九条兼実
源義経の従者として名前が記されているのみ
<「吾妻鏡」>
鎌倉時代末期の1300年(皇紀1960)正安2年頃の作
初代将軍 源頼朝から第6代将軍 宗尊親王まで6代の将軍記
作者:鎌倉幕府
源義経の従者として名前が記されているのみ
<源平盛衰記>
鎌倉時代末期頃の作
二条天皇から安徳天皇までの20年ほどの源氏・平家の盛衰興亡の創作物語
作者不詳・全48巻
弁慶も、やや具体的に登場している
<義経記(ぎけいき)>
南北朝時代から室町時代初期に記された創作物語
源義経(牛若丸)と、関係した者を中心に記されている
作者不詳・全8巻
弁慶の出生から死に至るまでの物語が記されている
<五条大橋>
牛若丸(源義経)と闘ったところ
当時の「五条大橋」「五条大路」は、現在の松原橋・松原通のことをいう
<五條天神宮>
「義経記」によると、
牛若丸(源義経)と出会い、闘ったのは、五条大橋ではなく五條天神宮ともいわれている
<北野天満宮>
板絵金地着色 昌俊弁慶相騎図(重要文化財)
源義経の命を狙った土佐坊昌俊を、弁慶が捕らえて堀川の屋敷へ引っ立てていく場面を描いた大きな絵馬
長谷川等伯の筆
<弁慶石>
三条通麩屋町の歩道脇にある石
弁慶が、五条大橋から三条京極まで(約2.5km)投げたといわれる石
「男の子が触ると力持ちになれる」「火魔・病魔からのがれられる」といわれている
全国に、特に奥州国平泉(岩手県平泉町)に下る旅路にも、「弁慶石」と称される多くの石がある
<八瀬天満宮>
弁慶の背比べ石
八瀬天満宮の下の鳥居の傍にある
弁慶が、比叡山から持って降りてきたものといわれる
石の高さは六尺ぐらいあったといわれる、現在は、約1.5mぐらい
<延暦寺>
<弁慶水>
山王院の近くの湧水で、現在も東塔の水源になっている
かつて西塔に住んでいた武蔵坊弁慶が、千日間、この水をくんで千手堂(山王院)に参籠したといわれる
担い堂(にないどう)(重要文化財)
法華堂と常行堂と、朱色の全く同形の2棟の堂が左右に並んでいる
弁慶が、渡り廊下を持ち、担ぎ上げたことから「担い堂」と称されるようになったともいわれる
<寿延寺>
石碑「五条十禅師宮旧蹟」
五条大橋旧跡の碑
闘いに負けた牛若丸と、主従の契りを結んだといわれる十禅師の森があったところ
<清水寺の七不思議>
弁慶の指跡
弁慶の鉄の下駄と錫杖
<橋弁慶山>
祇園祭の山鉾のひとつ
謡曲「橋弁慶」の五条大橋の上で牛若丸と武蔵坊弁慶が闘う様子を現わしている
武蔵坊弁慶と牛若丸が舞台の五条大橋の上に乗っている
<大山祇神社(愛媛県今治市)>
武蔵坊弁慶が奉納したといわれる大薙刀(おおなぎなた)(重要文化財)がある
弁慶が愛用していた薙刀(なぎなた)は「岩融」と称せられる
「岩をも断ち切るほどの切れ味の良さ」があったといわれる
刃長は3尺5寸(約106cm)(通常の薙刀は75~90cm)
作刀者は名匠 三条宗近
大山祇神社の大薙刀が「岩融」であるかは不明
<能「橋弁慶」>
比叡山の僧 武蔵坊弁慶は、祈願のため五条の天神に参詣をしようとするが、
従者から、五条の橋に化け物のような人斬りが出るので止めるよう進言される
弁慶は、人斬りを退治することを決意し、夜になるのを待ち五条の橋へ行くと、牛若が女装して待ち構えていた
牛若が弁慶に斬りかかり、長刀を振るって応戦するが、身軽な牛若丸に翻弄される
ついに降参した弁慶は、牛若の身分を聞き、主従の誓いをする
<能「船弁慶(ふなべんけい)」>
義経は、弁慶たちと西国へ逃れようと、摂津国大物の浦に到着する
同行していた義経の愛妾 静御前は、困難な道のりをこれ以上進むことは難しく、弁慶の進言もあって、都に戻ることになる
別れの宴の席で、静御前は再会を祈願しながら舞を舞い、涙にくれて義経を見送る
船が海上に出と、突然、暴風に見舞われ、波の上に、壇ノ浦で滅亡した平家一門の亡霊が姿を現す
なかでも総大将 平知盛の怨霊が、薙刀を振りかざして襲いかかってくる
弁慶は、武力では太刀打ちできないと、珠数を持ち、必死に五大尊明王に祈祷すると、怨霊は調伏されて消え去っていく
<能「安宅(あたか)」>
兄 源頼朝と不仲となった源義経は、弁慶などと山伏の一行の姿で、都落ちして奥州国平泉を目指す
源義経は、加賀国安宅の関の富樫に、一行を捕縛するよう命じる
富樫が源義経の一行を止めると、弁慶は東大寺再建の寄付を募る山伏の一行だと偽る
富樫は「勧進聖なら勧進帳をもっているはず」と迫ると、弁慶は、持っていた巻物を本物の勧進帳のように朗々と読み上げた
富樫は、その気迫に通行を許すが、強力(ごうりき)に変装していた源義経を再び止める
弁慶は、とっさに「お前のために疑われた」と義経を責めて金剛杖で源義経を打ちつける
その迫力に押された富樫は、一行の通行を許す
源義経の一行を富樫が追ってきて、非礼を詫び、酒宴となる
弁慶は、罠かと疑いながら、延年の舞を舞い、心を許さずに陸奥へ落ち延びていく
<歌舞伎「勧進帳」>
能「安宅」を歌舞伎化した松羽目物
市川團十郎家の歌舞伎十八番の演目のひとつ
<謡曲「橋弁慶」>
五条大橋の上で、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が闘う様子
<歌舞伎「義経千本桜」>
源義経を主人公とし、弁慶も主要人物の一人として登場する
<落語「こぶ弁慶」>
大津の宿で、弁慶の絵が塗りこめられていた壁土を食べて、弁慶に取りつかれて暴れる男の話
<日本昔噺「牛若丸」>
著者:明治時代の伽噺作家 巖谷小波
五条大橋の上で、牛若丸と弁慶が闘うお話
<尋常小学唱歌「牛若丸」>
1911年(皇紀2571)明治44年5月
日本昔噺「牛若丸」にもとづく童謡
作詞者・作曲者ともに不詳
「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く
前やうしろや右左 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」
<弁慶の泣き所>
脛(すね)(膝のから足首の上まで)のこと
皮膚のすぐ下、脛骨のすぐ上に神経が通っている
弁慶ほどの豪傑でも、ここを打てば涙を流すほど痛いといわれる急所とされる
<内弁慶>
身内には強気になって威張り散らすが、知らない相手には意気地がなく大人しくなる人のこと
「内弁慶、外地蔵」「内弁慶、外鼠」ともいわれる
<立往生>
行きづまってどうにもならないこと
源頼朝から討伐命を受けた藤原泰衡方は500騎の兵で襲撃
源義経方は、10名程で防戦する
弁慶は、源義経を守るべく、雨のような敵の矢を身体に受けて、薙刀を杖にして立ったまま絶命したという
<弁慶の立往生>
自らを投げ出し、主君を護って忠義の臣を表すこと
弁慶は、源義経を守るべく、雨のような敵の矢を身体に受けて、薙刀を杖にして立ったまま絶命したという
<七つ道具>
7個で一式の大切な道具のこと
弁慶が、薙刀・鉄の熊手・大槌・大鋸・刺又・突棒・袖搦の7つの武器を持っていたことにちなむ
<弁慶ぎなた式・ぎなた読み>
文章の息継ぎ場所を変えると、文章の意味が変わるということ
「弁慶が薙刀を持って刺し殺した」という文章を「弁慶がな、ぎなたを持ってさ、しころした」と読むようなこと
「ここで履物をぬいでください」を「ここでは着物を脱いでください」と読むなど
<弁慶>
藁などを束にして囲炉裏端に吊るし、串に通した魚やお肉を刺して煙で燻製を作れるようにした道具
弁慶が、雨のような敵の矢を身体に受けて立っていた様子から称されるようになった