源義経(みなもとのよしつね)(Yoshitsune Minamoto)

源義経(みなもとのよしつね)は、平安時代末期の武将

生年:1159年(皇紀1819)平治元年
没年:1189年(皇紀1849)文治5年閏4月30日
享年:31

父親:河内源氏の源義朝
9男
母親:常盤御前(九条院の雑仕女)

実名:義経
幼名:牛若丸(うしわかまる)
稚児名:遮那王(しゃなおう)
仮名:九郎

異母兄:源義平、源頼朝、源範頼

正室:郷御前(河越重頼の娘)
愛妾:白拍子 静御前
側室:蕨姫(平時忠)

出身:京都
墓地:不明

 源義経(みなもとのよしつね)は、平安時代末期の武将

 幼少期は「牛若丸」と称せられ、鞍馬寺で天狗と出会い武術の修行をしたといわれる

 兄 源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、すぐに駆け付け、
 一ノ谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦により平氏を滅ぼした最大の功労者
 その後、兄 源頼朝と対立し、後白河法皇の追討の院宣を受けて、奥州平泉で自刃し果てた

 「平家物語」などにも登場し、多くの伝説や物語を生んだ

【源義経の歴史・経緯】

【主な関連人物】

 <源頼朝との対立理由>
 「吾妻鏡」などによると
 源頼朝に許可を得ることなく官位を受けたこと
 平氏追討のときに、軍監として源頼朝に派遣されていた梶原景時の意見を聞かず、独断で行動したこと
 壇ノ浦の合戦の後、源範頼の管轄である九州へ越権行為をしたこと
 源頼朝の配下の東国武士達に対して、ちょっとした過ちでも咎め立てをしたこと
 源頼朝を通さず勝手に成敗を行い武士達の恨みをかったこと
 西国武士を率いて平氏を滅亡させた大きな功績を得て、東国武士達の活躍の機会を奪うこととなったこと
 鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の恩賞が少なくなり不満が噴出したこと
 安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料となり得た三種の神器の一つの宝剣を紛失したこと
 平氏が院政の軍事的役割を独占していた院御厩司に任命されたこと
 平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶ったこと
 かつての平氏の地位を、義経が継承しようとしたこと
 などなど、源頼朝の怒りをかった

 <義経の従者>
 源有綱: 義経の娘婿
 一条能成: 義経の異父弟
 中原信康: 義経の右筆
 武蔵坊弁慶: 義経四天王の一人
 伊勢義盛: 義経四天王の一人
 常陸坊海尊: 義経四天王の一人
 亀井重清: 義経四天王の一人

 佐藤継信: 「源平盛衰記」における義経四天王の一人
 佐藤忠信: 「源平盛衰記」における義経四天王の一人
 鎌田盛政: 「源平盛衰記」における義経四天王の一人
 鎌田光政: 「源平盛衰記」における義経四天王の一人

 駿河次郎: 「義経記」における義経四天王の一人
 片岡経春: 「吾妻鏡」における義経四天王の一人
 藤原秀衡: 奥州藤原氏当主、鎮守府将軍

 金売吉次: 「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」における奥州への案内人


【ゆかりの地】

 <鞍馬山鞍馬寺
 幼少期の牛若丸が、鞍馬寺に預けられ、修行をしたところ
 元服後、奥州に下る前にも、武者修行をした

 木の根道
 この付近は、牛若丸が天狗を相手に修行をしたといわれる伝説の場所

 僧正ヶ谷
 義経堂があり、牛若丸が護法魔王尊の脇侍(遮那王尊)として祀られている
 謡曲「鞍馬天狗」において、牛若丸と大天狗が出会ったとされる

 鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)
 源義経に武芸を教えたといわれる陰陽師 鬼一法眼が祀られている

 川上地蔵堂
 源義経の守り本尊が祀られている

 義経公供養塔
 息つぎの水
 背比べ石 など


 <五条大橋
 大男の武蔵坊弁慶は、太刀千本を奪い取ろうと、夜ごとに街を駆けめぐり999本の太刀を手に入れる
 最後の1本を奪い取るために五条大橋で待ち構えていたところに、法師姿の牛若丸が通りかかる
 五条大橋の上で一騎打ちとなるが、弁慶は、欄干を飛び渡り身のこなしも軽い牛若丸に翻弄され太刀も奪えず負けてしまう
 五条大橋の西側、河原町通との交差点近くのグリーンベルト内に、牛若丸と弁慶が闘う様子の石像がある

 なお当時の「五条大橋」「五条大路」は、現在の松原橋・松原通のことをいう

 <牛若ひろば
 牛若丸と弁慶の闘いにちなんで、五条大橋西橋詰にある公園

 <寿延寺
 松原通から大黒町通を下ったところにある寺院
 牛若丸と武蔵坊弁慶が主従の契りを交わしたという十禅師の森があったところにある

 <清水寺
 清水の舞台で、武蔵坊弁慶との最終決戦が行われたといわれる


 <首途八幡宮
 金売吉次に伴われ奥州平泉に出発するときに、道中の安全と武勇の上達を祈願したといわれる
 「源義経奥州首途之地」の石碑が立っている
 3月2、3日には、首途祭(かどでさい)が行われ、源義経の御霊和めの神事が行われる

 <粟田神社摂社 出生恵美須神社>
 奥州へ下向かうときに、源家の再興を祈願されたといわれ、「門出恵美須」とも称される
 室町時代

 <冠者殿社
 源頼朝から義経暗殺の命を受けた土佐坊昌俊が、熊野詣を装って上洛し、
夜の暗闇の中で義経の堀川邸を襲った「土佐坊昌俊の堀川夜討ち」の故事がある
 そのことから「起請返し」「誓文払い」の信仰がある

 <五條天神宮
 「義経記」によると、牛若丸と弁慶が出会い闘ったのは五条大橋ではなく、五條天神宮ともいわれている


 <蹴上の石仏
 「山城名勝志」によると、
 奥州を目指して旅立ち九条山の坂にさしかかた時、
馬で坂を下りてきた平家の武士 関原与市重治ら9人の馬が水溜りの水を蹴り上げ牛若丸にかけてしまった

 晴れの門出を汚された牛若丸は、馬上の威圧的な9人の武将達を斬り殺してしまう
 後に、牛若丸は、9人の菩提を弔うために9体の石仏を東海道沿いに安置したといわれる
 蹴上」の地名の由来にもなっている

 <義経大日如来
 源義経が、安置した9体の蹴上の石仏の一つといわれている


 父親 源義朝の別荘があった紫竹牛若町付近
 <牛若丸誕生井>
 <源義経産湯井ノ遺跡>
 源義経の産湯に使われたいくつかの井戸の跡地

 <牛若丸胞衣塚>
 源義経のへその緒と胎盤が埋められているといわれる


 <左女牛井之跡
 源頼義や父親 源義朝・源義経などの、河内源氏の屋敷「六条堀川館」の邸内にあった井戸
 六条堀川館は、源義経が京を逃れた後に焼き払われ、井戸の跡が残されている

 <若宮八幡宮社
 源頼義や父親 源義朝・源義経などの、河内源氏の屋敷「六条堀川館」の邸内に石清水八幡宮の若宮として創建された

 <若宮八幡宮
 若宮八幡宮社五条通に遷った跡の旧地に祀られている


 <神泉苑
 源義経と静御前が出会った所といわれる

 <宇治川
 後白河法皇を幽閉した木曾義仲と、鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経との合戦が行われる


 <稗田野神社
 源義経により奉納されたといわれる京式八角石燈籠がある

 <萬年寺
 本尊として、源義経の念持仏といわれる阿弥陀如来が安置されている

 <長講堂
 後白河法皇の直筆で、平清盛や源義経など多くの人物の名前が記されている「過去現在牒」がある


 <橋弁慶山
 祇園祭における山鉾の一つの山
 謡曲「橋弁慶」にちなみ、牛若丸と弁慶五条大橋で戦う姿を表している
 牛若丸の人形が足駄の前歯だけで支えられている精巧な人形組がなされている

【伝承】

 <義経が祀られているところ>
 白旗神社(神奈川県藤沢市): 義経の首が葬られ祭神として祀られている
 荘厳寺(神奈川県藤沢市): 天保年間(1830年〜1844年)から伝わる義経の位牌がある
 判官森(宮城県栗原市栗駒沼倉): 義経の胴体が埋葬されたといわれる
 雲際寺(岩手県奥州市衣川): 自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたといわれる

 <判官贔屓(ほうがんびいき)>
 優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の心情のこと
 江戸時代、義経の30年の生涯が人々の同情をよび、称されていた
 英雄視されて語られるようになり、義経を主人公とする物語や能、歌舞伎(義経物)などが創作される
 浄瑠璃も義経がきっかけで生まれたといわれる
 後世、架空の物語や伝説が次々と付加されてきている

 <伝説>
 鞍馬山で天狗(鞍馬天狗)から武術の修行を受けたといわれる
 五条大橋武蔵坊弁慶と出会い負かした
 陰陽師 鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書「六韜」「三略」を盗み出して学んだといわれる
 衣川の戦いで、弁慶は、義経を守るために全身に矢を受けて仁王立ちで戦死したといわれる

 <義経北方伝説>
 後世の人々の判官贔屓の心情により、
 義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたという伝説を生み出した
 蝦夷地に渡ってアイヌの王となったという伝説もある
 北海道中川郡本別町には「義経山」や「弁慶洞」と称される義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる地がある
 1799年(皇紀2459)寛政11年
 蝦夷地のピラトリ(現在の北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建されている

 <チンギス・ハン伝説> 
 義経は奥州平泉から逃れ、蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り「チンギス・ハン」と名乗ったという伝説
 その後、「元寇」となり日本に襲来してきたともいわれる

 <「虎の巻」>
 成功のための必読書のこと
 陰陽師 鬼一法眼の伝家の兵書「六韜」の「虎巻」から戦術を学んだといわれることが由来

【その他】

 <浄瑠璃
 御伽草子の「浄瑠璃十二段草子(浄瑠璃物語)」を語って神仏の功徳を説いたのが由来といわれる
 「浄瑠璃物語」は、矢作(やはぎ)の長者の浄瑠璃御前と牛若丸とのロマンスに薬師如来などの霊験譚を加えた物語
 この物語の名前から、その後の語り物を「浄瑠璃」と称されるようになった


 <日本昔噺「牛若丸」>
 著者:明治時代の伽噺作家 巖谷小波
 五条大橋の上で、牛若丸と弁慶が闘うお話

 <尋常小学唱歌「牛若丸」>
 1911年(皇紀2571)明治44年5月
 日本昔噺「牛若丸」にもとづく童謡
 作詞者・作曲者ともに不詳
  「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる
  牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く
  前やうしろや右左 ここと思えば またあちら 燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」

 五条大橋の西詰めに、牛若丸と弁慶が闘う像が置かれている
 当時の「五条大橋」「五条大路」は、現在の松原橋・松原通のことをいう


 <料理 木の芽煮
 あけびの蔓(つる)と山椒を漬けこんだもの  鞍馬寺で修行を積んでいた牛若丸が常食にしていたといわれる


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