大船鉾(おおふねほこ)は、祇園祭における山鉾の一つの山
神功皇后の古事記の新羅出船の故事に由来して、鉾全体が船の形をしている
船鉾は、応仁の乱以前より2基あり、その一つ
先祭(さきのまつり)の最後の船鉾は「出陣の船鉾」と称され、
後祭(あとのまつり)の最後を勤める大船鉾は、「凱旋船鉾」と称される
「古事記」や「日本書紀」に記される神功皇后の新羅出船の神話が由来
神功皇后が妊娠中にもかかわらず、皇子が凱旋まで産まれぬように祈願して、
晒(さらし)を巻いて男装で新羅に出て勝利した後に、応仁天皇をお産みになったという神話による
神功皇后は、安産の神さんとして崇められてきている
船鉾と同じ4体が祀られている
・龍神安曇磯良 ・住吉明神 ・神功皇后 ・鹿島明神
出陣の船鉾とは異なり、
帰陣ということで、武装は解かれ、龍神安曇磯良は合掌している
大船鉾装飾品121点が、京都市有形民俗文化財に指定されている
京都府立総合資料館に寄託されている
<御神体 神宮皇后>
他の3体の御神体人形である礒良(いそら)・住吉大明神・鹿島大明神の遺品は失っている
<御神面>
江戸時代以前のものといわれる
<御神体衣裳>
2種類
立菱固綾小直衣
唐花顕紋紗狩衣
<龍頭(りゅうとう)>
檜材(ひのき)を用いた寄せ木造、高さ約2m、重さ約220kg
鋭い目線や、前からの風を受けて後ろになびくような髭が特徴
2016年(皇紀2676)平成28年
瀧尾神社により新調され寄進される
幕末に焼失した大船鉾の龍頭は、彫刻師 九山新之丞(くやましんのじょう)、九山新太郎親子の作といわれる
瀧尾神社の拝殿の天井の龍の彫刻も九山新之丞の作
瀧尾神社の拝殿の天井の龍を参考に2年かけて新調された
米原市の彫刻師 森哲荘(九山新之丞を襲名)、長男 森靖一郎、次男 森徹雄の親子の作
<大金幣>
舳先につけられる
約2m
1813年(皇紀2473)文化10年6月
南四条町で新調され、この年から、龍頭を北四条町、大金幣を南四条町により隔年で出されていた
龍頭は焼失してしまっている
<大舵>
緋羅紗地 雲龍波濤文様刺繍
<前懸>
雲龍波濤文様綴織
<後懸>
雲龍波濤文様綴織
<胴懸>
居祭用に小さく仕立て直されている
金と赤の縦縞のストライプ、船鉾の物は赤と緑のストライプが横縞になっている
<水引>
3種類
緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍
金地雲龍文様
緋羅紗地鳳凰文様刺繍
<天水引>
軒先に掛けられていたもの
龍文様
<高欄掛>
後尾の高欄の下に掛けられていた
3つとも、鳳凰の刺繍
<艫幕(ともまく)板飾り3枚>
船尾に取り付ける装飾品
後ろ正面の一枚:長さ約1.8m、高さ45cm
頭は鶏、体はうろこで覆われ、獅子の尾を持つ霊獣「鳥龍」が描かれている
左舷と右舷の飾り:長さ約1.2m、高さ45cm
海馬と犀(さい)の彫刻が施されている
2021年(皇紀2681)令和3年
瀧尾神社の寄進
瀧尾神社本殿の拝所にある欄間の彫刻を原案にして制作された
<鉦>
2種類
1839年(皇紀2499)天保10年の南条勘三郎の作
1984年(皇紀2644)昭和59年の五代目 南条勘三郎の作
<敷物>
緋羅紗地唐草文様捺染
<飾房>
<掛軸>
1930年(皇紀2590)昭和5年の中島荘陽の筆
<古文書>
1866年(皇紀2526)慶応2年の神事勘定帳
<居祭>
宵山の期間中、安産の腹帯「岩田帯」、安産の御守が授与される
四条町大船鉾保存会により保存されている
<寄町制度>
1591年(皇紀2251)天正19年
豊臣秀吉により定められた制度
山鉾町だけに巨額の費用を負担をさせることは祇園会が継続されないため、山鉾を出していない町を
特定の山鉾の「寄町」に指定し「地ノ口米」と称する物を拠出させ、山鉾町の資金に充てた
四条町の寄町
1869年(皇紀2529)明治2年までは、北四条町と南四条町に分かれていた
北四条町、地ノ口米は二石六斗
笹屋町(東洞院通御池下ル)・等持寺町(柳馬場通二条下ル)・帯屋町(高倉通四条上ル)・
貝屋町(高倉通錦小路上ル)
南四条町、地ノ口米は二石三斗
舟屋町(東洞院通御池上ル)・虎石町(柳馬場通御池上ル)・松屋町(二条通東洞院東入)・
観音町(二条通高倉東入)