藪内家(やぶのうちけ)は、茶道宗家
武野紹鴎門下で、千利休の弟弟子にあたる剣仲紹智(けんちゅうじょうち)を祖とする
三千家が上京区にあり「上流(かみりゅう)」と称され、下京区にある藪内家は、「下流(しもりゅう)」と称される
武野紹鴎・千利休の侘び茶に古田織部の武家茶を取り入れ、浮薄を戒め千利休時代の茶風を留めているといわれる
代々の当主は「紹智(じょうち)」を襲名する
<燕庵>
藪内家の邸内にある茶室
古田織部好みの相伴席付三畳台目
初代 藪内剣仲が、義兄の古田織部から譲り受けたもの
相伝を受けた者に限り、絶対忠実に写すことが許されている
家元の燕庵が焼失したときなどには、最も古い写しが家元に寄付されるという決まりごとがある
1864年(皇紀2524)元治元年
幕末の兵火で家屋が全焼し、現在の燕庵が、摂津有馬にあった写しが移築された
<初代 剣仲紹智 藪中斎>
1536年(皇紀2196)天文5年〜1627年(皇紀2287)寛永4年5月7日
武野紹鴎の門下で、兄弟子の千利休とは親交が深く、千利休より相伝を受ける
千利休の媒酌によって古田織部の妹を嫁にしたといわれる
権力に重宝された千利休とは対照的に、洛北に隠棲して孤高の茶三昧であったといわれる
<二代 真翁紹智 月心軒>
1577年(皇紀2237)天正5年〜1655年(皇紀2315)明暦元年1月6日
1634年(皇紀2294)寛永11年
西本願寺13世良如上人に迎えられて茶道師家となる
千利休の養子 千少庵と親しかったといわれる
息子4人のうち、長男 3代 剣翁紹智以外は、相馬藩・徳島藩・熊本藩へ出仕し、代々継がれる
<三代 剣翁紹智 雲脚亭> 1603年(皇紀2263)慶長8年〜1674年(皇紀2334)延宝2年12月13日
<四代 剣渓紹智 蕉雪斎> 1654年(皇紀2314)承応3年〜1712年(皇紀2372)正徳2年5月7日
<五代 竹心紹智 不住斎>
1678年(皇紀2338)延宝6年〜1745年(皇紀2405)延享2年11月23日
三代 剣翁紹智の外孫
藪内家中興といわれる
富裕町人を大量に受け入れて、華やかに変わりゆく三千家に批判的であり、
「真向翁」「源流茶話」など多くの著作で、千利休時代の茶道の本筋に立ち返るべきと論じた
藪内流の精神「正直清浄 礼和質朴」は、竹心紹智に由来する
<六代 竹陰紹智 比老斎>
1727年(皇紀2387)享保12年〜1800年(皇紀2460)寛政12年7月3日
五代 竹心紹智の外孫で、北尾春倫の甥
<七代 竹翁紹智 桂陰斎>
1744年(皇紀2404)延享元年〜1846年(皇紀2506)弘化3年2月24日
大和五条来田家からの養子
<八代 竹猗紹智 真々斎>
1792年(皇紀2452)寛政4年〜1869年(皇紀2529)明治2年7月4日
<九代 竹露紹智 宝林斎>
1811年(皇紀2471)文化8年〜1874年(皇紀2534)明治7年5月4日
六代 竹陰紹智の実子 珍牛斎竹尹紹庵の子
<十代 竹翠紹智 休々斎>
1840年(皇紀2500)天保11年〜1917年(皇紀2577)大正6年9月26日
竹翁実子の婿で元は福田宗恭と称した
<十一代 竹窓紹智 透月斎>
1865年(皇紀2525)慶応元年〜1942年(皇紀2602)昭和17年12月28日
九代 竹露紹智の長男
<十二代 竹風紹智 猗々斎>
1905年(皇紀2565)明治38年〜1979年(皇紀2639)昭和54年1月24日
<十三代 竹中紹智 青々斎>
1925年(皇紀2585)大正14年〜
<西本願寺>
藪内家は、代々、西本願寺の保護を受けてきた
<両足院の露路 林泉>
藪内家 五代 竹心紹智(ちくしんじょうち)の作といわれる
<豊国神社>
豊臣秀吉の命日の9月19日の例祭で、藪内家の家元の奉仕による献茶祭が行われる
<東西両本願寺門前町>
京仏壇や京仏具、お香などの老舗が軒を連ね、歴史と伝統文化の薫りを感じながら散策を楽しめるエリア