古田織部(ふるたおりべ)(Oribe Furuta)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名・茶人

生年:1543年(皇紀2203)天文12年
没年:1615年(皇紀2275)慶長20年6月11日
享年:73

本名:古田重然(ふるたしげなり)
初名:古田景安

別名:左介
通称:織部・古織 (こしょく)
号:印斎
法名:金甫宗室

父親:古田重定
養父:古田重安
兄弟:古田重然・古田重則・古田重続
正室:せん(中川重清の娘)
子供:長男 古田重広ほか男子4人、娘(古田重続の室)、娘(鈴木左馬介の室)

官位:従五位下、織部正、織部助

主君:織田信長豊臣秀吉豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠

利休七哲の一人

出身:美濃国(岐阜県)
墓所:大徳寺塔頭三玄院
   興聖寺(上京区堀川通寺之内上ル)

 古田織部(ふるたおりべ)は、桃山時代江戸時代初期の大名、茶人

 織田信長豊臣秀吉に仕え、茶の湯千利休に学び、利休七哲の一人で、「天下の茶人」と称される

 本名は、古田重然(ふるたしげなり)で、官職名から「織部」と称される

【古田織部の経緯】

【織部流茶道】

 利休七哲の一人として、千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、
千利休の佗茶よりも武将らしい豪放な大名茶を推進し、織部流の茶道を大成した

 千利休と同様に、反骨精神が旺盛で、江戸幕府の意向を無視することもあり、その影響力などを江戸幕府が危険視するようになり、
切腹に至ったといわれる


 <利休七哲>
 千利休門下の茶の湯上手である利休七哲の一人とされる(他には蒲生氏郷細川忠興・高山右近ら)

 千利休の後、堺衆の今井宗久、津田宗及も亡くなると、豊臣家の茶頭を古田織部が継ぎ、天下一の茶人となる


 <織部好み>
 千利休の「人と違う事をしろ」という教えを忠実に実行し、千利休とは趣向が大きく異なり
千利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させる

 茶席・茶器・陶芸・建物・庭園作庭などの分野での古田織部の意匠
 武家好みの動的で、大胆かつ自由な気風の流派を確立し、
 多窓形式の茶室や、景気を好んだ露地など奇抜な美的感覚の意匠を一大流行させる


 <門弟>
 職人や陶工らを多数抱え、創作活動を競わせながら指導にあたったといわれる

 2代将軍 徳川秀忠本阿弥光悦小堀遠州・伊達政宗・加藤清正・浅野幸長・池田輝政・上田宗箇・金森可重・毛利秀元などや、
 聖護院親王、慈胤法親王など朝廷・貴族・寺社・経済界とも様々なつながりを持った

 天下一の茶人として全国の大名に多大な影響を与えた

 小堀遠州には、8年間にわたり茶の湯を伝授、「慶長伝授」と称される


 <初代 剣仲紹智 藪中斎>
 藪内家の初代家元
 武野紹鴎の門下で、兄弟子の千利休とは親交が深く、千利休より相伝を受ける
 千利休の媒酌によって古田織部の妹を嫁にしたといわれる

 <茶書>
 「茶湯伝書」「織部百ヶ条」などを著し茶の流儀を固めた

 古田織部の書は、左へ斜めにずれるのが特徴といわれる


 <茶室
 藪内家 燕庵
  京屋敷にあった茶席を、親交のあった藪内紹智(剣仲)に与えた
  相伴席が特徴

 興福寺八窓庵
  多窓形式の茶室


 <織部焼>
 武将でありながら自由な数寄の精神を表現される
 形のゆがんだ沓型茶碗(くつがたちゃわん)は、「へうげもの(ひょうきんなもの)」とも称され、
ゆがみ・ひずみの美を重視した大胆な意匠となっている


 「破調の美」と称され、器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しんだといわれる
 「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字」 :大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した
 「流れ圜悟」 :墨跡を2つに断ち切った


 <織部燈籠(キリシタン燈籠)>
 竿部分にマリア像を掘り込んだ燈籠


 <「織部十作」>
 美濃焼の窯元に与えた新たな名前
 織田信長が亡くなってから廃れていた出身地の美濃窯元に私財投じて、多大な援助を行った


 <名前の由来>
 本名は、古田重然(ふるたしげなり)
 従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来して「古田織部(ふるたおりべ)」と称される


 <子供>
 長男 古田重広が家督を継ぐ
 古田重尚:前田利常の家臣
 古田小三郎:池田利隆の家臣
 古田重行(九郎八):豊臣秀頼の家臣
 古田重久(左近):徳川秀忠の家臣

 豊臣氏との内通の嫌疑により、息子たちも連座して共々切腹し、古田家は断絶する

 古田織部の死後は、一門で娘婿の古田重続が、豊後岡藩中川家の家老として藩内で受け継いでいった

 明治維新で江戸幕府がなくなると、子孫は東京に出て「織部流」の普及にあたり、千葉県指定無形文化財に指定されている


 <お墓>
 大徳寺塔頭玉林庵(現在は三玄院)に葬られる
 古田織部の妻の隠居所が興聖寺(上京区)の塔頭にあったことから、江戸時代後期に興聖寺に建てられた古田織部の墓の左右に
墓石が並んでいる


【古田織部のゆかりの地】

 <燕庵(重要文化財)
 織部好みの代表的な茶室
 義理の弟の藪内剣仲に譲ったといわれ、藪内家の代表的な茶室

 <興臨院 涵虚亭(かんきょてい)>
 古田織部好みの四畳台目に隅板を加えた中柱出炉下座床の茶室
 蘇東坡(そとうば)の詩から名付けられたといわれ、「涵(内容が豊かである)」「虚(中身が無くむなしい)」という意味をもつ
 床の間は袖壁が出ているために洞の様に見える事から「洞床(ほらどこ)」と称される

 <曼殊院書院附茶室 八窓軒(重要文化財)>
 小書院の北側に隣接して建つ茶室
 平三畳台目(さんじょうだいめ)、下座床の席
 古田織部や小堀遠州の好みと貴族趣味を取り入れたもの
 仏教の八相成道にちなんで、8つの窓があることから「八窓軒」と称される
 窓からの光の演出がされ、躙口上の連子窓は、虹のような影が生じることから「虹の窓」と称される
 金地院の八窓席、大徳寺孤篷庵忘筌席とともに京都三名席の一つ

 <三玄院
 古田織部・小堀遠州・薮内剣仲・長谷川等伯などが、春屋宗園から禅を学んだといわれる
 八窓の茶室「篁庵(こうあん)」は、古田織部好みの三畳台目
 江戸時代の建立
 古田織部・春屋宗園・三成・森忠政・薮内剣仲のお墓がある

 <興聖寺
 菩提寺
 古田織部のお墓の左右に、次男 古田重尚(前田利常の家臣)、三男 古田重広(池田光政の家臣)、
四男 古田重行(豊臣秀頼の家臣)、五男 古田重久の墓石が並んでいる

 <織部稲荷社>
 興聖寺の東隣の大應寺の鎮守社として伏見稲荷大社より勧請したとわれる
 開運福徳、織物技術上達の神さんとして信仰される

【その他】

 <「へうげもの」
 山田芳裕原作のアニメ
 戦国武将 古田織部を主人公として描いた歴史漫画作品
 毎回「これは『出世』と『物』2つの欲の間で日々葛藤と悶絶を繰り返す戦国武将 古田織部の物語である」と紹介されている


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