醍醐天皇(だいごてんのう)

平安時代中期の第60代天皇

生年:885年(皇紀1545)元慶9年1月18日
崩御:930年(皇紀1590)延長8年9月29日
宝算:46

第59代 宇多天皇の第一皇子
母親:藤原胤子(贈皇太后)(内大臣 藤原高藤の娘)
養母:藤原温子(関白太政大臣 藤原基経の娘)

諱:源維城(みなもとのこれざね)
親王宣下の後:敦仁(あつぎみ)

即位:897年(皇紀1557)寛平9年7月13日
譲位:930年(皇紀1590)延長8年9月22日

元号:寛平・昌泰・延喜・延長

先代:宇多天皇
次代:朱雀天皇

中宮:藤原穏子
女御:源和子、藤原和香子
皇子女:保明親王、朱雀天皇村上天皇、源高明ほか

別称:延喜帝、小野天皇、後山階帝
法名:宝金剛

陵墓:後山科陵(のちのやましなりょう)(伏見区醍醐

 醍醐天皇(だいごてんのう)は、平安時代中期の第60代天皇

 臣籍の身分として生まれた唯一の天皇

 平安時代では最長の33年間在位した天皇

 摂関を置かずに親政を行って、地方政治や制度・文化面において数々の業績を収め、「延喜の治」と称される理想的な時代とされる

【醍醐天皇の歴史・経緯】

【醍醐天皇】

 醍醐天皇は、平安時代では最長の33年間在位し、摂関を置かずに親政を行って、
地方政治や制度・文化面において数々の業績を収め、「延喜の治」と称される理想的な時代とされる

 第62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治」とも称される

 摂関を置かない親政でも、実際には藤原時平の政治主導によるところが大きかった

 <「寛平御遺誡」>
 父親 宇多天皇から与えられた、国を治めるときの心を記した伝国詔命
 左大臣 藤原時平、右大臣 菅原道真とし政務の補佐をさせることが記されている

 <国史「日本三代実録」>
 藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らにより編纂された歴史書
 六国史の第六にあたる
 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の3代、858年(皇紀1518)天安2年8月から887年(皇紀1547)仁和3年8月までの30年間を扱う

 <「延喜格(えんぎきゃく)」>
 869年(皇紀1529)貞観11年から907年(皇紀1567)延喜7年までの詔勅・太政官符のうち重要なものを選別したもの
 醍醐天皇の命により編纂された

 <「延喜式」>
 醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始めた格式(律令の施行細則)
 三代格式の一つ

 <荘園整理令>
 全国の荘園を一斉整理する目的で、藤原時平の尽力により施行された


 <歌道
 和歌の振興に力を入れ、自身も才能に長け、勅撰集に43首が入っている

  「春風の吹かぬ世にだにあらませば心のどかに花は見てまし」(続後撰和歌集)

 <「古今和歌集」>
 醍醐天皇の命により紀貫之紀貫之らが編纂した、日本最初の勅撰和歌集

 <家集「延喜御集」>
 醍醐天皇の御集(歌集)として唯一現存するもの
 和歌36首、連歌2句、贈答歌が多く、半数以上が他者の歌となっている

 <宸記「延喜御記(えんぎぎょき)」全20巻>
 33年間にわたって記された「醍醐天皇日記」
 宮中内裏の清涼殿の厨子に保管され、後の天皇の教訓の書とされた
 「村上天皇日記」と合わせて「二代御記」と称される
 散逸して現存しないが、諸書に引用された逸文を次代の村上天皇の宸記と併せた「延喜天暦御記抄」として伝わっている


 <后妃・皇子女>
 20人に近い女御・更衣を持ち、36人の皇子女をもうけた

 中宮:藤原穏子(関白 藤原基経の娘)
   第二皇子:保明親王(醍醐天皇皇太子)
   第十四皇女:康子内親王(一品准三宮)(右大臣 藤原師輔の妻)
   第十四皇子:寛明親王(朱雀天皇
   第十六皇子:成明親王(村上天皇

 妃:為子内親王(光孝天皇皇女)(宇多天皇同母妹)
   第一皇女:勧子内親王(四品)

 女御:源和子(光孝天皇皇女)
   第四皇女:慶子内親王(敦固親王の妻)
   第五皇子:常明親王(四品刑部卿)
   第六皇子:式明親王(三品中務卿)
   第七皇子:有明親王(三品兵部卿)
   第十三皇女:韶子内親王(賀茂斎王
   第十七皇女:斉子内親王(伊勢斎宮)
 女御:藤原能子(右大臣 藤原定方の娘)
 女御:藤原和香子(大納言 藤原定国の娘)
 更衣:源封子(源旧鑑の娘)
   第二皇女:宣子内親王(賀茂斎王
   第一皇子:克明親王(三品兵部卿)
   第十二皇女:靖子内親王(大納言 藤原師氏の妻)
 更衣:藤原鮮子(藤原連永の娘)
   第三皇女:恭子内親王(賀茂斎王
   第三皇子:代明親王(三品中務卿)
   第六皇女:婉子内親王(賀茂斎王・三品)
   第九皇女:敏子内親王
 更衣:源昇女
   第四皇子:重明親王(三品式部卿)
 更衣:源周子(近江更衣)(源唱の娘)
   第五皇女:勤子内親王(四品、右大臣 藤原師輔の妻)
   第七皇女:都子内親王(無品)
   第十皇女:雅子内親王(四品、伊勢斎宮、右大臣 藤原師輔の妻)
   第十二皇子:源高明
   第十八皇子:盛明親王(四品)
 更衣:満子女王(相輔王の娘)
   第八皇女:修子内親王(元良親王の妻)
   第十一皇女:普子内親王(源清平の妻)(後に藤原俊連の妻)
 更衣:藤原淑姫(参議 藤原菅根の娘)
   第十一皇子:兼明親王(前中書王(一品中務卿)
   第十六皇女:英子内親王
   皇子:源自明
 更衣:藤原桑子(楓御息所)(中納言 藤原兼輔の娘)
   第十三皇子:章明親王(二品弾正尹)
 更衣:中将更衣(藤原伊衡の娘)
   皇子:源為明
 更衣:源敏相女
   皇子:源允明
 更衣:源清子
 更衣:藤原同子
 更衣:源暖子
 生母不明
   皇女:源厳子

【醍醐天皇ゆかりの地】

 <御陵>
 後山科陵(のちのやましなのみささぎ)(伏見区醍醐古道町)
 公式形式は円丘
 醍醐寺の管理下にあったため、平安時代の御陵としては所在が確定できる数少ないの1つ


 <花山神社
 醍醐天皇の夢告に宇迦之御魂大神が現れ、勅命により、三柱が勧請され創建されたといわれる

 <籠神社
 「小野道風筆額面」は、醍醐天皇の勅命により、小野道風の筆の「正一位籠之大明神」の神額を賜ったもの

 <水火天満宮
 菅原道真の祟りを恐れた醍醐天皇の勅願により、水害・火災を鎮めるため、菅原道真の神霊を祀ったのが由来

 <醍醐寺
 醍醐天皇が祈願寺とされて、手厚い庇護を受け、金堂(国宝)や薬師堂が御願によりに創建され、伽藍が整えられる
 五重塔(国宝)は、醍醐天皇の冥福を祈るため第一皇子 朱雀天皇が、醍醐天皇の一周忌に起工した

 <智恩寺
 醍醐天皇の勅により山号・寺号が与えられ、勅額を下賜されたといわれ、勅願所となって、文殊会料の荘田寄進があった

 <勧修寺
 醍醐天皇が、若くして死去した生母 藤原胤子の追善のため、右大臣 藤原定方(藤原胤子の弟)に命じて、
宇治郡の大領(統治者) 宮道弥益(藤原胤子の外祖父)邸宅跡に、承俊律師を開山にして創建する
 寺号は、醍醐天皇の祖父 藤原高藤の諡号をとって「勧修寺」と名付けられる
 後に、醍醐天皇の勅願寺となる

 <愛宕念仏寺
 鴨川の洪水で堂宇が流失し、廃寺になりかかっていたが、
 醍醐天皇の勅願で、天台宗の高僧 阿闍梨伝燈大法師 千観内供により再興され、
 「等覚山(とうかくざん)愛宕院(おたぎいん)」と号する延暦寺の末寺となる

 <神泉苑
 「源平盛衰記」によると、神泉苑の池には野鳥が水鳥が多く棲んでいたといわれ、
 醍醐天皇の宣旨に、鷺も羽をたたんでかしこまったといわれ、このとき、醍醐天皇より五位の位を賜り「五位鷺」と称された

【その他】

 <菅原道真の祟り
 左大臣 藤原時平、右大臣 菅原道真の両者の間に反目が生じ、
 菅原道真が天皇の廃立を謀ったとの、時平の讒言を受け入れて、菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷する
 この事件のことを「聖代の瑕」と称される

 その後、藤原時平が早死にし、
 中宮 藤原穏子との間の長男 皇太子 保明親王が21歳で早世する
 保明親王の第一王子 慶頼王(やすよりおう)を皇太孫としたが、2年後に5歳で夭折する

 一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂され悩まされ、
 菅原道真を左遷した詔を覆し、右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた

 宮中内裏の清涼殿に落雷し死傷者を出すという落雷事件が起き、醍醐天皇は精神的ダメージで体調を崩し、そのまま病に伏せる


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