地図情報
勧修寺は、山科の南部の勧修寺にある寺院
親王が住寺する格式ある十三門跡寺院の一つで、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院
白梅や、紅葉の名所の一つ
3月は、馬酔木(あしび)
5月上旬〜中旬は、氷室の池(ひむろのいけ)に睡蓮や杜若、夏は百日紅が咲き競う美しい名所
境内のあちこちで紅葉がみられる
<築地塀>
参道の両側には、白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表わしている
<本堂>
1672年(皇紀2332)寛文12年
霊元天皇より仮内待所を下賜されて移築したもの
元は近衛家の建物であったといわれる
本尊 千手観音菩薩像が祀られている
<宸殿>
入母屋造、桟瓦葺、寝殿造風の建物
内部は書院造
1697年(皇紀2357)元禄10年1月
明正天皇の旧御殿が下賜されて移築したもの
江戸時代初期の御所の建物
<書院(重要文化財)>
入母屋造、柿葺(こけらぶき)で、江戸時代初期の書院造の典型的な建物
一の間の違棚は、「勧修寺棚」と称される
土佐光起・土佐光成父子の作とされる襖絵「竜田ノ紅葉図」「近江八景図」がある
1686年(皇紀2346)貞享3年
後西院(ごさいいん)旧殿を賜って建てられたといわれる
明正天皇の旧御殿が下賜されて移築したものともいわれる
<五大堂>
<観音堂>
氷室池に面して建つ楼閣風の建物
本尊の観音菩薩像が安置されている
1931年(皇紀2591)昭和6年の再建
「大斐閣」とも称される
<勧修寺氷池園(京都市指定名勝)>
書院前の氷室池を中心とした池泉舟遊式庭園
「典雅の極致」といわれる平安時代の作庭
1786年(皇紀2446)天明6年刊行の「拾遺都名所図会」には「氷室池十五勝」が描かれている
<来栖氷室の池(くるすひむろのいけ)>
睡蓮や杜若、花菖蒲(はなしょうぶ)が咲き競う名所
5月上旬〜中旬が一年で一番美しい庭となる
勧修寺氷池園の中心となり、かつては2万m2もあったが、豊臣秀吉の伏見城築城のときに新道建設のために
南部分が埋められ、現在は約6600m2
大小3つの島が浮かび東山を借景に15の景勝が設けられている
実際に船遊びも行われていたといわれる
「翠微滝(すいびのたき)」は、現在は枯れてしまい、中島の数も減ってきている
毎年1月2日に、この池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀豊凶を占ったといわれる
氷室とは、冬場にできた氷を保存貯蔵しておくところ
<平庭>
書院の南に広がる庭
1697年(皇紀2357)元禄10年
背後の南大日山(みなみだいにちやま)を借景にした庭園
水戸光圀の寄進といわれる勧修寺型燈籠がおかれている
樹齢750年の名木ハイビヤクシンも立っている
<八十八の霊石>
小さな小石が88個並べられており、踏んで歩いて88ヶ所の霊場めぐりとする
最後の石は高野山にあたる
<臥竜(がりゅう)の老梅>
書院南の庭園内にある4本の白梅
江戸時代 元禄年間(1688年〜1703年)
皇族の一人が同寺住職に出家したときに、書院や宸殿の建物と一緒に京都御所から移植されたもので、
樹齢300年といわれる
親木を囲むように子、孫、ひ孫の木が支え合い、清らかな白い梅を咲かせる
2月上旬〜下旬 が見どころ
<山桃の老木>
落雷により幹が半分に割れている
樹齢350年といわれる
<さざれ石>
<菩提樹>
<塔頭 仏光院>
尼僧 大石順教が修行を行ったところ
仏像・彫刻
<千手観音菩薩像>
本尊の千手観音菩薩像は、醍醐天皇の等身大に造られたといわれる
現存の像は、室町時代の頃の作
工芸品
<刺繍 釈迦如来説法図(しゃかにょらいせっぽうず)1面(国宝)>
「勧修寺繍帳」と称される
奈良時代の繡仏の大作
縦207.5cm X 横158.2cm
中央に、宝樹天蓋の下で獅子座に座って説法する赤衣偏袒右肩の釈迦が刺繡されている
上部には、飛鳥にまたがり空をかける神仙の群れ、雲上で楽奏する天人らが、
中辺から下部にかけては、菩薩形、聴聞の十大弟子などが刺繡されている
二種の繡技で糸の配色、太細などを変え、変化に富んだ細やかで立体感が出されている
現在は、奈良国立博物館が所蔵している
1635年(皇紀2295)寛永12年
額装にして観音開の扉が付けられている現在の体裁にされる
1902年(皇紀2562)明治35年4月17日 重要文化財に指定される
1952年(皇紀2612)昭和27年11月22日 国宝に指定される
<蓮花蒔絵経筥(はすはなまきえきょうばこ)1箇(重要文化財)>
平安時代のもの
紺紙金泥 大日経等が13巻入っている
1907年(皇紀2567)明治40年5月27日 重要文化財に指定される
<勧修寺型燈籠>
書院前の平庭に、水戸光圀(みとみつくに)より拝領したといわれる石燈籠が建てられている
「雪灯篭」「水戸灯篭」と称されている
古文書
<勧修寺文書(かじゅうじもんじょ)935通(重要文化財)>
勧修寺に残る鎌倉時代から江戸時代の文書群のまとまり
86巻・24冊・129通・3綴
門跡寺院としての多種の文書がある
近郷の田畠の売券、譲状や諸国に散在する寺領関係の文書も多くある
江戸時代中期
慈尊院濶海により文書・聖教の分類・整理が行われ、文書の多くは成巻され、外題は濶海筆になる
一部に成巻されないままの文書も残っている
文書箱四合に納められている
2017年(皇紀2677)平成29年9月15日 重要文化財に指定される
書跡・典籍
<紙本墨書 金剛頂瑜伽経(こんごうちょうゆがきょう)巻第一・第二 2巻(重要文化財)>
「金剛頂瑜伽経」は、唐の不空が翻訳した密教経典で3巻からなる
「大日経」とともに「両部の大経」とされ、金剛界曼荼羅はこの経典に基づく
巻子装
永承五年十月頼尊加点白書の奥書がある
1050年(皇紀1710)永承5年10月
浄光房点の創始者 頼尊が、自筆にて白書で加点される
「金剛頂瑜伽経」の加点本としても古い貴重なもの
2007年(皇紀2667)平成19年6月8日 重要文化財に指定される
<仁王経良賁疏(にんのうきょうりょうふんそ)3帖(重要文化財)>
平安時代の空海の筆といわれる
1957年(皇紀2617)昭和32年8月1日 重要文化財に指定される
<JR東海「そうだ 京都、行こう。」>
2005年(皇紀2665)平成17年の春のキャンペーンで、
「桜のあと、モネの描く「睡蓮」のようになるんです。」 と紹介される