光格天皇(こうかくてんのう)

光格天皇:第119代天皇

生年:1771年(皇紀2431)明和8年8月15日
立太子:なされず
即位:1779年(皇紀2439)安永8年11月25日
退位:1817年(皇紀2477)文化14年3月22日
崩御:1840年(皇紀2500)天保11年11月18日
宝算:70

閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子
母親:大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師 岩室宗賢の娘)

幼称:祐宮(さちのみや)
諱:師仁(もろひと)、後に兼仁(ともひと)

中宮:欣子内親王(新清和院)(後桃園天皇皇女)

先代:後桃園天皇
次代:仁孝天皇(光格天皇第四皇子 寛宮)

陵墓:後月輪陵(泉涌寺寺内)

 光格天皇(こうかくてんのう)は、江戸時代中期の第119代天皇

【光格天皇の歴史・経緯】

【光格天皇】

 博学多才で学問に熱心であり、作詩や管弦を嗜んだ

 実父 閑院宮典仁親王と同じく歌道にも優れていた

 中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に努め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったとされている

 400年近く途絶えていた石清水八幡宮賀茂社の臨時祭に努めた

【光格天皇ゆかりの地】

 <陵(みささぎ)>
 後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)(泉涌寺寺内)
 石造九重塔

 <下御霊神社
 本殿は、光格天皇により仮皇居の内侍所(賢所)が下賜され移建されたもの

 <平安神宮
 蒼龍池(そうりゅうち)は、光格天皇の遺愛の珍しい杜若「折鶴(おりずる)」がある

 <聖護院門跡
 一時期、仮皇居とされたところ
 光格天皇宸翰 神変大菩薩号勅書(重要文化財)
 光格天皇が、役行者の滅後1100年の後遠忌のときに、烏丸大納言を勅旨として聖護院に派遣され、
役行者に「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の名を追賜されたときの勅書
 全文が光格天皇の真筆

 <泉涌寺
 後月輪陵がある
 庭園の雪見灯籠は、仙洞御所より移され光格天皇が好まれたもの

 <宝鏡寺
 阿弥陀堂は、光格天皇の勅作の阿弥陀如来立像が安置されていることから「勅作堂」とも称される

 <光照院
 代々皇女が入寺され、光格天皇より「常磐御所」の称号を賜わる

 <仁和寺
 光格天皇の好みで建てられた草庵式の茶室 飛濤亭(重要文化財)がある

 <廬山寺
 本堂は、光格天皇の勅命で仙洞御所から移築されたものといわれる

【その他】

 <円山応挙
 光格天皇が、円山応挙の絵を愛寵したといわれる


 <尊号一件・尊号事件>
 光格天皇は、父親 閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしたが、老中 松平定信が反対
 松平定信は、同じように、将軍 徳川家斉が、父親 一橋治済に「大御所」の称号を贈ることも反対していた
 これらのことに、朝幕間は緊張したが、
 典仁親王の実弟の関白 鷹司輔平が、光格天皇と松平定信の双方を説得し、事態収拾を図った

 1884年(皇紀2544)明治17年
 明治天皇の高祖父にあたるということで、閑院宮典仁親王に「慶光天皇」の諡号と「太上天皇」の尊号が贈られた


 <上皇><太上天皇(だいじょうてんのう)>
 今上天皇が、皇太子などの後継者に譲位し退位された場合の呼称
 光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後には、平成の天皇まで、上皇になった天皇は誰もいなかった


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