地図情報
護念寺(ごねんじ)は、千本今出川の南西、今出川通に面してある寺院
<山門>
1920年(皇紀2580)大正9年
再建時に、境内西側の六軒町側から北側の今出川通に移される
<本堂>
「天照山」の扁額がかかる
1920年(皇紀2580)大正9年の再建
<地蔵堂>
「弘法大師御作 地蔵尊」の扁額がかかる
2018年(皇紀2678)平成30年に修復された
<平和観音>
地蔵堂の右手に立っている
1945年(皇紀2605)昭和20年6月26日午前9時40分頃 西陣空襲があった
死者43人・重軽傷者66人・家屋全壊71戸・半壊84戸・一部損壊137戸の被害が出たという
犠牲者の供養のために女性信者により、未来永劫の平和を祈念して立てられた
<阿弥陀如来>
本堂の本尊
上品下生の印を結び、胸には卍字跡がある
<延命地蔵菩薩>
地蔵堂に祀られている
弘法大師の作といわれる
極彩色、摺袈裟(すりけさ)をまとっている
脇侍右は掌善童子、脇侍左は掌悪童子
いずれも、2018年(皇紀2678)平成30年に修復されている
<普賢菩薩>
地蔵堂延命地蔵菩薩の右袖に祀られている
白象の上の蓮華の上に座り合掌している
2018年(皇紀2678)平成30年に修復されている
<版木 地蔵菩薩摺袈裟縁起(すりけさえんぎ)>
1866年(皇紀2526)慶応2年旧11月に彫られたもの
摺袈裟(すりけさ)は、僧侶が身につける袈裟(けさ)に、仏の功徳が説かれた経文や種子(梵字)などを版木で摺り込んだもの
袈裟曼荼羅(けさまんだら)とも称される
病気治癒・滅罪生善のご利益があり、没後は、棺桶に入れるか仏檀に供えると極楽浄土できるといわれた
江戸時代末期
摺袈裟地蔵信仰が盛んになっていた
五郎太夫名判ある地蔵菩薩摺袈裟縁起の概要
南北朝時代
明徳元年庚午(かのえうま)(1390年(皇紀2050)元中7年/明徳元年)5月28日
伊豆の田中村の五郎太夫時重が、何の煩(なやみ)もなく急死して閻魔王宮のもとに導かれる
閻魔王宮の十王は、手に袈裟を持ち五郎太夫に授けて、
「おまえは正しく曾我五郎の再誕である
父親に孝行の善因があるだけでなく神社に奉仕して三度、人界(にんかい)の果てを得ている
兄の十郎は、欲望にとらわれて心が離れなく、業(ごう)に引れて五百生地獄に堕ち、苦しみを限りなく受ている
しかし、彼もまた父親に孝行の善因がある
おまえの報命は今でもあるから、再度、娑婆に還って、この袈裟を十郎の墳の上におおい、一日一夜、地蔵尊の名号を唱えなさい
すると、必ず苦しみをまぬがれて天に生ずるはずだ
たとえ過去において千劫(せんごう)の罪業をつくっても、この此袈裟を一度身にまとえば一切の災難を遠ざけ無病長寿安産等を求めるところみな満足し、
将来は三途(さんず)の極苦を免れ、さえぎりのない浄土に往生すること疑いない
もしそうでなかったならば、我は二度と十王とよばれない」
と、いわれたときに夢が覚るように命が蘇った
その時、手の中には袈裟があり、誠に不思議なことと思った
恐ろしくもあったが、ありがたく喜び尊び、曾我の里にいって里人に尋ねると、十郎の塚より夜ごとに火がもえ出ることがあると聞く
御告を思い起こし、ますます信じて、大王の教えどおり、袈裟を塚の上におおい地蔵尊の宝号をとなえる
一日一夜が過ぎたときに、塚の中より声があって
「二百年来苦しみを受けること限り、今修めるところの功力によって五百生の罪業を滅し、ただちに天上に生ず」と、大きな音が大空にひびく
殊勝(しゅしょう)にありがたく天を拝んだ
同年、秋のころ、袈裟の圖相(ずそう)(ご利益)をながく世に結縁(けちえん)させるために、梓板(あずさいた)に絵を描き同州修善寺に納められた
<板戸絵「蓮華」>
本尊の空殿(厨子)の脇の板戸に描かれている
檀信徒の日本画家 疋田芳沼(ひきたほうしょう)の作
<屏風「四季」六曲一双>
本殿の内陣余間にある
江戸時代後期の日本画家 国井応文(くにいおうぶん)の作
<洛陽延命地蔵巡り>
1692年(皇紀2352)元禄5年頃
1番:東光寺(北野御前通)・2番:護念寺・3番:上善寺・4番:西昌寺・5番:萬年寺・6番:長圓寺