一条戻橋(いちじょうもどりばし)は、一条通の堀川に架かる橋
晴明神社から堀川通を約100m南へ下がったところにある
平安京の一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあった
嫁入りするときには、一条戻橋を渡ると実家に戻ってきてしまうと信じられ、決して渡ってはいけないといわれる
<三善清行の蘇生>
「撰集抄」巻七によると
平安時代中期
918年(皇紀1578)延喜18年
文章博士 三善清行が亡くなり、紀州熊野で修行中だった息子 浄蔵貴所は、知らせを聞き急いで京都に帰り、
この橋の上を渡っていた父親の葬列の棺にすがって泣き悲しんでいたところ、三善清行が蘇生をして、
二人は会話をしたという
この故事から、死者がよみがえる場所といわれ「一条戻橋」と称されるようになったといわれる
一条通は、平安京の一番北の通りであり、洛中と洛外を分ける橋でもあり、
京の内と外、この世とあの世との間に架けられているという意味にもとらえられたといわれる
一条戻橋の先には葬送の地があり、葬儀の列が必ずこの橋を渡ったといわれる
<鬼女>
「平家物語」剣巻によると
摂津源氏 源頼光の四天王の筆頭だった渡辺綱が、夜中に一条戻橋のたもとを通りかかったとき、
美しい女性に呼び止められて、夜も更けて恐いので、五条の家まで送って欲しいと頼まれた
渡辺綱が、その女を馬に乗せ送っていく途中、その女が突然、鬼に姿を変え、
渡辺綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った
渡辺綱は、鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができたといわれる
その腕は、摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが、
渡辺綱の義母に化けた鬼が取り戻しにきたといわれる
<橋占>
一条戻橋は、橋占の名所でもあったといわれる
「源平盛衰記」巻十によると
高倉天皇の中宮 建礼門院が出産されるときに、母親の二位殿(平清盛の妻)が一条戻橋で橋占を行った
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、
生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったといわれる
その童子は、陰陽師 安倍晴明が、一条戻橋の下に棲まわせていた十二神将の化身だったといわれる
安倍晴明は、十二神将を式神として使っていたが、彼の妻が式神の顔を怖がったので、
一条戻橋の下に隠し、必要なときに召喚していたといわれる
<婚礼の列>
「戻橋」という名前から、嫁入り前の女性や、縁談に関わる人は、嫁が実家に戻って来てはいけないと、
この橋に近づかなかったといわれる
<戦争中>
召喚された兵隊さんやその家族は、無事に戻ってくるようにと願って、一条戻橋に渡りに来ていたといわれる
<晴明神社>
近くにある晴明神社には、以前の一条戻橋の部材を使って再現したミニチュアがおかれている
<和泉式部の歌>
いづくにも 帰るさまのみ 渡ればや 戻り橋とは 人のいふらん
<源氏物語>
第9帖「葵」の巻で、お祭(葵祭)の見物にきた光源氏の愛人 六条の御息所が、正室 葵の上の牛車と衝突し、
葵の上の従者たちに牛車を壊されたという車争いが起こった付近と推測される
「源氏物語」の中に「一条戻橋」の記載はない
「宇治の巻に ゆくはかへるの橋 と記されている」と解説しているものもあるが、
「源氏物語」に「宇治の巻」はなく、全巻にも「ゆくはかへるの橋」の記載もない