西方寺(さいほうじ)
(SaihoJi) 京都通メンバ
所在地:京都市上京区真盛町 
   卍地図情報卍

別称:西方尼寺

天台宗真盛派西教寺の末寺

山号:真盛山

本尊:阿弥陀如来(腰掛如来)

創建:文明年間(1469年~1487年)


開山:天台宗真盛派(天台真盛宗)の祖 真盛(しんせい)

通称:茶の寺

重要文化財:1件(絵画)

 西方寺(さいほうじ)は、北野天満宮の東、上七軒の上七軒歌舞練場の隣にある寺院

 茶道と関わりが深く「茶の寺」とも称される

【西方寺の歴史・経緯】

【西方寺の伽藍】

 <本堂>
 三千家の祠が祀られている

 <茶室 紫水庵>
 上七軒芸舞妓さんが、裏千家の茶の稽古をしている

 <表門>
 桃山時代の建立

 <利休井戸>
 本堂前にある
 1587年(皇紀2247)天正15年
 北野大茶湯のとき、千利休が用いたといわれる井戸

 <利休椿>
 千利休の植えという五色散椿
 4月初旬より1カ月ほど、一本の木に、さまざまな色の花を付ける

 <庭園>
 江戸時代に作庭された枯山水庭園
 苔地に飛石、自然石の石橋が架かる
 築山の左手に亀頭石、立石2石の滝添石の間に低い石があり、滝水とされる
 この2石が、鶴石組の羽を兼ねているといわれる

 <宗淵碑>
 西来寺31世 宗淵の遺衣が治められている

 <本光院>
 境内に、再興されている
 本尊に、織田信長の念持仏という地蔵菩薩が祀られている
 足利直義の妻 本光院殿(渋川貞頼の娘)が開山したといわれる
 1302年(皇紀1962)正安4年
 後二条天皇の皇女 㛹子内親王が、父親の菩提を弔うために建立したともいわれる
 1501年(皇紀2161)文亀元年頃に焼失
 織田信長が寺領の寄進、復興の援助を行う
 江戸時代
 西方寺の住持を兼務するようになる
 1673年(皇紀2333)延宝元年に焼失
 1968年(皇紀2628)昭和43年
 西方寺で再興される

【西方寺の寺宝】

 <阿弥陀如来
 本尊
 椅子に腰かけており「腰掛如来」と称される珍しいもの
 寄木造、漆箔、像高52cm、 中品中生の印を結ぶ

 <絹本著色 観経曼荼羅図(かんきょうまんだらず)1幅(重要文化財)>
 鎌倉時代
 大和 當麻寺(たいまでら)の中将姫(ちゅうじょうひめ)ゆかりの綴織観経曼荼羅(当麻曼荼羅)を転写したもの
 1909年(皇紀2569)明治42年4月5日 重要文化財に指定される

 <絹本著色 世継観世音菩薩像 1幅>
 室町時代の作

 

【その他】

 <上京区真盛町(しんせいちょう)>
 町名は、西方寺の開山 真盛、西方寺の山号「真盛山」にちなむ


 <名物 真盛豆
 煎った丹波産黒豆に大豆粉と砂糖蜜を重ね、外側に青海苔がまぶされた緑色の球状の菓子
 「衣豆」とも称される
 開山 真盛が、念仏を聞きに来た信者に授与したのが由来といわれる
 真盛は、尼僧 盛久・盛春に、真盛豆の製法を伝授したといわれる
 北野大茶会のときに、豊臣秀吉が真盛豆を食べ「茶味に適す」と賞賛し、
細川幽斎は「苔のむす豆」と例えたといわれる
 1868年(皇紀2528)慶応4年
 和菓子店「金谷正廣」の初代が、真盛豆の製法を学び、銘菓として完成させた


 <千日回峯行>
 比叡山延暦寺の千日回峯行の京都大廻りのときに、北野天満宮を経て西方寺にも立ち寄る

【西方寺へのアクセス】

 市バス 上七軒 徒歩約3分
 市バス 北野天満宮前 徒歩約5分
 嵐電 北野白梅町駅 徒歩約15分

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