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第二十三番札所へ
城興寺(じょうこうじ)は、烏丸九条交差点の北西にある寺院
関白 藤原忠実が伝領し、壮大な堂塔伽藍が整備され、白河法皇の院宣により、盛大な伽藍供養が行われた
慈覚大師 円仁が自ら製作した千手観世音菩薩を秘仏の本尊とし、
洛陽三十三所観音巡礼第二十二番札所となっている
創建当時は、広大な寺域を誇っていたが徐々に衰える
現在は、本堂、庫裏、薬院社を残すのみ
<本堂>
観音堂
<薬院社>
祭神:荼枳尼天(女稲荷)・施薬院稲荷(せやくいんいなり)
平安時代初期に、この付近にあった平安京の施薬院(せやくいん)が由来
東九条の鎮守神・産土神、町内鎮守・元寺鎮守・祟り示現稲荷とされる
夫婦円満・家内安全・病気平癒のご利益がある
730年(皇紀1390)天平2年
光明皇后の発願により、大和に、悲田院とともに施薬院が創設された
病人・孤児の保護・治療・施薬を行ったといわれる
平安時代初期
左大臣 藤原冬嗣が私財を投じ、境内の北西200m(東久九条中殿田町)の自らの土地にに施薬院を開設した
北100m(上殿田町)には、施薬院御倉(みくら)が置かれていた
鎌倉時代初期
施薬院は他所へ移転し、御倉跡の薬院の森には、施薬院稲荷の祠のみが残された
以後、東九条の鎮守社になる
江戸時代末期、文久年間(1861年~1864年)
薬院社が、薬師院の鎮守社として遷されてきたともいわれる
明治維新
明治新政府の神仏分離 廃仏毀釈の悪政により、施薬院稲荷が廃絶させられる
1878年(皇紀2538)明治11年
地域の農民により、城興寺陀枳尼天堂に合祀された
荼枳尼天は「女稲荷」といわれ、合祀されたことで男女のお稲荷さんが祀られているといわれ、
夫婦円満のご利益があるといわれる
<千手観世音菩薩>
秘仏の本尊
838年(皇紀1498)承和5年
慈覚大師 円仁が、遣唐使として入唐したとき、無事の帰国を祈願して、自ら船中で制作されたもの
<薬師如来>
弘法大師の作
829年(皇紀1489)天長6年
全国に大疫病が流行したとき、淳和天皇に祈祷を命じられた弘法大師が制作し、疫病を鎮静化させたといわれる
<不動明王>
平安時代末期の作
<大日如来>
<紙本墨書「城興寺古伽藍図」1幅>
江戸時代の作
108.5cm × 54cm
<薬院社神鏡 1面>
直径29.8cm
1408年(皇紀2068)応永15年に作られ、施薬院稲荷に寄進された
<修正会> 1月元日から3日
<どんと祭> 1月15日
<彼岸会> 3月21日
<施餓鬼法要> 8月17日
<彼岸会> 9月25日
<お火焚祭> 11月3日
「うたかひも あらでたすくる ぢょうこうぢ ほとけののりぞ たつとくりける」
<小指みくじ>
恋愛や人生についてのおみくじ
筆の代わりに、小指で書かれた丸みを帯びた文字で、指詩(ゆびことば)がつづられている
小指は、赤い糸や指きりなど、人との出逢いや繋がりの象徴とされる
指詩は、吉凶ではなく、受け取った言葉を自分なりに解釈して心の励みにして、
良縁・幸せ・新たな出逢いへの「おみちびき」となる
<洛陽三十三所観音巡礼第二十二番札所>
観音菩薩を祀る京都市市内の三十三箇所の寺院をめぐる
公式納経帳が用意されている
2005年(皇紀2665)平成17年
百数十年ぶりに復興される
<城興寺城遺跡>
1983年(皇紀2643)昭和58年・1984年(皇紀2644)昭和59年
旧地境内の発掘調査により、室町時代後期の城興寺城の掘跡が発見される
堀が、現在の境内の東、烏丸通に南北に確認されている
堀の幅は、5.8mから7m以上、二段掘りで、深さは1.5mあった
堀跡からは漆器・椀・土器・下駄などの生活用品が見つかっている