南禅院(なんぜんいん)は、南禅寺の発祥地といわれる別院
門前には、琵琶湖疏水の水路閣が通る
庭園は、京都三名勝史蹟庭園(天龍寺庭園、西芳寺庭園)の一つ
<方丈>
総桧、入入母屋造、柿葺
1703年(皇紀2363)元禄16年
桂昌院(徳川綱吉の母親)によって再建されたもの
内陣中央に、亀山法皇御木造(重要文化財)が安置されている
襖絵は、狩野養朴と、その子 如川隋川による水墨画
<方丈庭園(国の史跡、国の名勝)>
亀山法皇が、自ら作庭したといわれ、夢窓疎石の手で完成された
心字池(しんじいけ)を中心として、周囲が深い樹林で包まれ自然の眺望・景観を活かした池泉回遊式庭園
京都の三名勝史跡庭園(天龍寺庭園、西芳寺庭園)の一つといわれる
京都で唯一の鎌倉時代の名園で、古式が残されている
当初は、吉野の桜、難波の葦、龍田の楓が植えられ、井手の蛙も放生されていたといわれる
方丈の西より南にかけてあり、西池、南池が矩形につながっている
方丈の西は、苔の庭
方丈の南には、曹源池が広がり、龍の形に作られ、中央に蓬莱島(鶴島)があり、約1.2mの蓬莱石が置かれている
「曹源」とは、「曹源一滴水」、正しい源から流れ出る真実の禅の意味があるといわれる
左の奥(東奥)に2段の滝口の石組み「龍門瀑」約2.5mが組まれ、琵琶湖疏水から水が引かれ、
石組みから滝壺に落ちる水音が庭園に響きわたる
滝は龍の頭と見立てられ、滝の上段に丸い鯉魚石が置かれ水を受け、滝の近くには坐禅石が置かれている
下池は、3つの中島と出島で「心の字」を描いている、池ではなく島で造られている珍しい例
足利義持が北山殿の寝殿を移築したときに、池や敷地が縮小される
応仁の乱で焼失荒廃する
新緑と紅葉の名所
<方丈前庭(名勝)>
方丈の西にある
江戸時代の小堀遠州による枯山水庭園
南北の長形の庭面に白砂、苔地があり、楓が植栽されている
<御霊殿>
南禅寺の開基 亀山法皇の坐像(重要文化財)が安置される
襖絵は、狩野養朴の筆
<茶室「龍淵窟」>
方丈と庫裏が廊下でつながっている
大正時代の岡田永斎による建立
書院風、広縁付七畳、天井はやや高く竿縁天井、床は一部に落天井になっている
床柱は杉面皮の磨丸太、黒漆塗の床框、火灯窓の付いた出書院、釘隠し金物を打つ長押などがある
6畳の控室は、床の間、床脇、逆勝手向炉、仏壇がある
<書院>
1703年(皇紀2363)元禄16年、桂昌院により再建された
<庫裡>
大正時代の建立
<亀山法皇廟所(宮内庁所管)>
庭園の東南隅にある
亀山法皇の分骨所として方形造の法華堂が建てられている
亀山法皇の遺言により、5つの青壺(青甕)に分割された一つが納められている
<一山国師塔>
一山一寧は、中国 元の皇帝の使節として来日し、鎌倉建長寺、円覚寺を経て、後宇多法皇の招きにより南禅寺第三世住持となる
南禅寺で亡くなっている
<後嵯峨天皇中宮 大宮院姑子粟田山陵>
境外南西の粟田山に、北面してある
大宮院(おおみやいん)は、後嵯峨天皇の中宮
後嵯峨法皇が亡くなって、南禅院に入寺し、初七日忌に落飾し「遍智覚」と称された
<亀山法皇坐像(重要文化財)>
方丈内陣に安置されている
南禅寺の開基 亀山法皇の肖像彫刻
法体で剃髪した禅定印姿で、衲衣に飛雲、袈裟に草花、金泥の瑞鳥の文様が描かれている
木造、寄木造、彩色、玉眼入、像高約86.7cm
現存する天皇の肖像彫刻としては最古のもので、禅僧・頂相の天皇像の彫像としては初例とされている
<一山一寧坐像(いっさんいちねいざぞう)(重要文化財)>
方丈内陣に北向きに安置されている
一山一寧の頂相彫刻
一山一寧は、中国 元の皇帝の使節として来日し、鎌倉建長寺、円覚寺を経て、後宇多法皇の招きにより南禅寺第三世住持となる
鎌倉時代の作
<亀山法皇の宸筆>
<方丈襖絵「龍図・梅竹図」>
狩野探幽の甥 狩野養朴の筆による水墨画
<方丈襖絵「山水花鳥図」>
狩野養朴の子 如川(にょせん)と隋川(ずいせん)の筆による水墨画
<小方丈の襖絵>
室町時代の絵師 狩野元信、狩野永徳、江戸時代の狩野探曲によるもの