小堀遠州(こぼりえんしゅう)(Kobori Ensyuu)

小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、江戸時代前期の大名・茶人・建築家・作庭家

本名:小堀政一(こぼりまさかず)

生年:1579年(皇紀2239)天正7年
没年:1647年(皇紀2307)正保4年2月6日

幼名:作助
元服後:正一、後に政一
道号:大有宗甫
庵号:孤篷庵

備中松山藩 2代藩主、のち近江小室藩 初代藩主
伏見奉行

 小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、江戸時代前期の大名・茶人・建築家・作庭家

 幼少の頃より父親の英才教育を受けて、千利休古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となる

 後水尾天皇などとともに寛永文化の中心人物となる

【小堀遠州の歴史・経緯】


【小堀遠州と茶道

 小堀遠州は、茶の湯にも優れ、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられた

 和歌藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れ、
「綺麗さびの茶の湯」と評されている幽玄・有心の茶道を創り上げた

 徳川将軍家茶道師範を得て、「格より入り、格より出る」ことを主義とした武家茶道の遠州流を興した

 大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層にの人を招待して400回ほどの茶会を開いたといわれる

 小堀遠州が選定した茶道具には、和歌歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語などの古典から取った銘が付けられ
「中興名物」と称される

 茶室は、古田織部のものより窓を増やし、明るくしている

 門下には、松花堂昭乗、沢庵宗彭などがいる

【小堀遠州と華道

 小堀遠州の美意識が、華道にも反映され、ひとつの流儀として確立していく

 花枝に大胆で大袈裟な曲をつける手法を特徴としている
 曲生けは、技術的に習得するのが困難な技法とされる

 江戸時代後期
 小堀遠州の茶の流れをくむ春秋軒一葉は、挿花の「天地人の三才」を確立し、茶の花から独自の花形へと展開した

 その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立される

 江戸時代末期から昭和初期
 既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、小堀遠州の名を冠した流派が大幅に増えた

【小堀遠州の遺構】

 <庭園の作風>
 正方形の切石を置いたり、直線に切られた長い畳石など直線が導入された庭園が大きな特徴
 樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなど西洋の影響も受けていた

 <二条城
 1624年(皇紀2284)寛永元年から
 後水尾天皇行幸を迎えるための大改築が行われることになり、小堀遠州が作事奉行となる

 <松山城>
 備中国奉行として、備中国だけでなく西国大名を抑えるために荒廃していた松山城を再建する
 小松山の中世の山城の遺構の上に近世の城を造る
 さらに、御根小屋跡に陣屋を建立し、茶室や庭園を作庭した

 <二の丸御殿庭園「八陣の庭」(国の特別名勝)>
 池泉回遊式庭園で、小堀遠州の代表作の一つ
 池には、3つの島が浮かび、池の中央やや北よりに、もっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある
 亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている
 蓬莱島は、亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、
常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている
 池の北西部には、二段の滝がある
 1626年(皇紀2286)寛永3年
 庭園は、大広間から眺められるように作庭されていたが、
 後水尾天皇行幸の際に、池の南に行幸御殿が建てられ、そこからも眺められるように改造されたといわれる

 <金地院方丈前庭「鶴亀の庭」(国の特別名勝
 以心崇伝が、徳川家光のために小堀遠州に作らせた庭
 小堀遠州の作庭であることの詳細な資料が残っている唯一のもの
 桃山時代の風格と格式の整った蓬莱式枯山水庭園
 庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿が表現されている
 前面の白砂は、宝船と同時に大洋を表している
 鶴島と亀島の中間に郡仙島を現した石が点在し、その奥の正面崖地には蓬莱連山を表わす三尊石組が置かれている
 来訪者の万世を寿ぐ祝儀の庭とされ、華やかであり、禅寺としては珍しい庭とされる
 1632年(皇紀2292)寛永9年の完成

 <南禅寺方丈庭園(国の名勝)>
 「虎の子渡しの庭」と称されている枯山水庭園

 <成就院「月の庭」(国の名勝)>
 書院の縁先から眺める借景式庭園、本来は池泉回遊式庭園
 心字池に映る月影が見事なことから「月の庭」と称される
 庭園奥の谷境の生垣を低くして、向かいの高台寺山を借景とし、山腹には石燈篭が置かれ、遠近感を出す工夫がされている
 相阿弥の作庭で小堀遠州の補修とか、松永貞徳の作庭ともいわれている
 京都の3つの成就院の雪月花の庭園のうちの「月の庭」(妙満寺成就院の「雪の庭」、北野成就院(現存せず)の「梅花の庭」)

 <孤篷庵
 小堀遠州が、大徳寺塔頭 龍光院内に江月宗玩を開祖として創立する
 その後、現在の地に移され、小堀遠州の実子 江雲宗龍が継ぐ
 茶室忘筌席」がある

 <孤篷庵庭園(国の史跡国の名勝)>
 方丈南庭は、直線的な刈り込みがされている幾何学的な庭
 書院南庭は、刈り込みにより近江八景を表現した庭

 <高台寺庭園(国の史跡国の名勝)>
 開山堂を挟み、西の偃月池(えんげつち)と東の臥龍池(がりゅうち)の2つの池がある池泉回遊式庭園

 <圓徳院北庭(国の名勝)>
 伏見城 北政所 化粧御殿の前庭を移した桃山時代の代表的な池泉回遊式の枯山水庭園
 賢庭の作庭で、後に、小堀遠州が手を加えたといわれる
 東北部は、枯滝石組が構成されており、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめていくつかの群をなし、
蓮菜石組を構成している
 数個の巨大な石で、池泉にかかる数個の橋としている
 多数の巨岩大岩が用いられている迫力のある珍しい庭で、桃山時代の豪華さ、豪胆さが現われている
 池には、ウマスギゴケの群落が広がる

 <御香宮神社石庭>
 1623年(皇紀2283)元和9年
 小堀遠州が伏見奉行に命ぜられ奉行所内に、伏見城の礎石などを利用して造られた庭園
 上洛した三代将軍 徳川家光を迎えたとき、立派な庭園に感心され、5千石の褒美と、大名に列せられ出世の機会を得たといわれる
 おそらく椿は、樹齢約400年の五色八重散椿
 小堀遠州が例祭に参拝したときに「おそらくこれほど見事な椿は他にない」とつぶやいたことで名付けられたといわれる

 <仙洞御所回遊式庭園(京都御苑
 1636年(皇紀2296)寛永13年の作庭
 1664年(皇紀2324)寛文4年
 後水尾上皇が手を加えたものといわれる

 <天授庵方丈前庭>
 方丈前の幾何学模様の石畳がある枯山水庭園

 <正伝寺庭園>
 「獅子の子渡しの庭」と称される、比叡山を借景にした白砂敷きの枯山水庭園

 <青蓮院霧島の庭>
 叢華殿の東側の庭

 <芳春院呑湖閣山水庭園>

 <養源院庭園>

 <秩父宮御殿庭園>

【小堀遠州の茶室

 <龍光院茶室密庵国宝
 小堀遠州の設計といわれる
 床、付書院、違い棚、張付壁がある書院造様式

 <金地院茶室「八窓席(はっそうのせき)」(重要文化財)>
 以心崇伝の依頼により、方丈北側の小書院に付設された茶席
 小堀遠州の設計
 貴人座、赤松皮付の床柱に黒塗框という取り合わせなど、小堀遠州が好んだ三畳台目の典型的な茶室
 中柱に小壁をつけて下地窓をつけ、勝手窓を大きくとって席を明るくしている
 にじり口には、外縁を設けるなど、珍しい手法が用いられている
 創建当時には、名称の通り8つの窓があったが、明治時代の修築で6つとなった
 襖絵は、長谷川等伯筆の「猿猴捉月図」と「老松」
 大徳寺孤篷庵忘筌席曼殊院の八窓席とともに京都三名席の一つ

 <孤篷庵茶室忘筌席」(重要文化財)
 小堀遠州の建立
 九畳と三畳の相伴席(しょうばんせき)からなる十二畳の広間の書院式茶席
 「忘筌(ぼうせん)」とは、荘子(そうじ)の「魚ヲ得テ筌ヲ忘レ」という句にちなんだものといわれる
 「目的を達すれば道具(筌:魚をとるための道具)の存在を忘れる」という禅の悟りがしるされる
 金地院の八窓席、曼殊院の八窓席とともに京都三名席の一つ

【その他】

 <小堀遠州像(孤篷庵)>
 晩年の小堀遠州の姿を想像して描かれたもの
 上部には、小堀遠州の参禅の師である春屋宗園の賛がある

 <春日局木像(麟祥院御霊屋)>
 小堀遠州作の春日局の木像が安置されている

 <三玄院
 小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などが、春屋宗園から禅を学んだといわれる


【京都検定 第1回3級】

56.南禅寺の塔頭 金地院の「鶴亀の庭」を作庭したのは誰か?

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第6回3級】

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第11回3級】

【京都検定 第19回3級】

【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第4回2級】

【京都検定 第7回2級】

【京都検定 第8回2級】

【京都検定 第4回1級】

【京都検定 第9回1級】

【京都検定 第12回1級】

【京都検定 第15回1級】


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