大原の里は、京都市街の北東部、八瀬北方にある都心から約15kmの山間部一帯
高野川の上流、鯖街道(若狭路)(国道367号)沿いにある
かつては、貴人や仏教修行者の隠棲の地でもあった
来迎院と勝林院、宝泉院、実光院は、日本音楽の源流といわれる声明音律の発祥の地
慈覚大師 円仁が、声明の修練道場として開山した、
来迎院を上院、勝林院を下院として、「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」と総称したのが、「大原」の地名の由来とされる
<大原女の小径>
大原の里を東西に散策できる小道
大原バス停前から西方向へ三千院、その奥の勝林院までと、大原バス停前から東方向へ、寂光院への参拝路
鯖街道(国道367号線)付近
<大原郷土館>
<呂川橋> 呂川・律川が流れる
<大原中学校>
<梅宮神社>
<出世稲荷神社>
鯖街道より東側
<椿地蔵> 茶屋通りから呂川の対岸
<三千院> 大原バス停より徒歩約10分
<後鳥羽天皇大原陵> 三千院の北
<順徳天皇大原陵> 三千院の北
<実光院> 後鳥羽天皇大原陵の西
<勝林院> 実光院の北
<宝泉院> 勝林院の北西
<勝手神社> 三千院の北東
<蓮成院> 三千院の東
<浄蓮華院> 蓮成院の北
<遮那院> 蓮成院の東
<来迎院> 浄蓮華院の東
<音無の滝> 来迎院よりさらに東へ徒歩約15分
<念仏寺> 三千院の南
鯖街道より西側
<寂光院> 大原バス停より徒歩約20分
<桂徳院> 寂光院の東、手前
<建礼門院陵> 寂光院の東
<神明神社> 建礼門院陵の北西
<阿波内侍の墓> 寂光院の西
約500本程の桜の木がある名所
<三千院>
往生極楽院脇の苔庭の老樹「涙の桜」
室町時代の歌僧 頓阿が、この桜を見て「見るたびに袖こそ濡るれ桜花」と詠んだことが由来
<実光院>
「不断桜」
11月ごろ満開となり、寒中も咲き続け、春にまた咲く珍しい桜
<宝泉院>
額縁庭園から見る桜の里景色
<寂光院>
「みぎわの桜」
後白河上皇が、隠棲していた建礼門院を訪ねたときに「池水に汀の桜散りしきて」と詠んだことが由来
<寂光院>
「平家物語」の「大原御幸」の段によると
平清盛の娘の建礼門院(高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母)が、壇ノ浦の戦いで平家一族が滅亡した後も生き残り、
1185年(皇紀1845)文治元年
侍女の阿波内侍とともに出家、尼となって寂光院に隠棲し余生を送った
後白河法皇が、平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈り、建礼門院をたずねて寂光院を訪れてくる
<衣装>
活動的でおしゃれなもの
寂光院に穏棲された建礼門院に仕えた阿波内侍が着ていた衣装が原型といわれている
<大原女まつり>
5月上旬
<時代祭>
大原女が、時代祭の中世婦人列に参加している
<大原談義・大原問答>
1186年(皇紀1846)文治2年
天台宗の顕真法師(後の61世天台座主)が、浄土宗の宗祖 円光大師 法然上人を勝林院に招いて、
専修念仏について問答を行い宗論を戦わせた
この時、法然上人の教えが正しいと、阿弥陀如来の手から光明が放たれ、念仏の衆生済度(しゅじょうさいど)の証拠を
示したといわれる故事が残り「証拠の阿弥陀」と称される
<紫蘇(しそ)の里>
7月〜8月
紫蘇畑の最盛期で、里中が紫蘇の香りに包まれる
<しば漬の里>
800年以上の歴史を持つ伝統の味
<能の演目>
能の演目「大原御幸(おはらごこう)」の舞台にもなっている
<小野霞>
冬に大原盆地に棚引く幻想的な霞