近藤勇(こんどういさみ)(Isami Kondo)

江戸時代末期の武士

生年:1834年(皇紀2494)天保5年
没年:1868年(皇紀2528)慶応4年4月25日
享年:35

父親:宮川久次郎
三男
母親:みよ(ゑい)

養父:近藤周助

幼名:勝五郎、後に勝太
諱:昌宜(まさよし)
通称:勇(いさみ)、大久保剛、大久保大和

天然理心流 四代目宗家
新選組局長
甲陽鎮撫隊の隊長

家紋:丸の内に三つ引

出身:武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)
お墓:龍源寺(三鷹市)

 近藤勇(こんどういさみ)は、江戸時代末期の武士

 幕末維新の京都で、幕府として尊王攘夷派の志士の取締りにあたった新選組の局長

 新政府軍に対抗した幕府軍 甲陽鎮撫隊の隊長

【近藤勇の経緯】

【近藤勇】

 武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)生まれ

 近藤周助の天然理心流剣術道場「試衛館(しえいかん)」に入門して剣法を学び、
 その養子となり、天然理心流宗家四代となり宗家を継ぐ

   江戸幕府が清河八郎の提案で募集した14代将軍 徳川家茂の上洛を警護する浪士組織「浪士組」に、
近藤ら試衛館の土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八ら8人が参加する

 京都に到着、壬生村の民家や壬生寺などの寺社に分宿し、近藤は郷士 八木源之丞邸に泊まる

 清河八郎は、朝廷に尊皇攘夷の志を建白する目的を果たし、
 浪士組は、江戸への帰還を命ぜられるが、近藤勇や芹沢鴨らは、異議を唱えて京に残留する

 京都守護職の管理下に置かれて「新選組」とされ、近藤派と芹沢派の二派閥体制となる

 新選組初代筆頭局長 芹沢鴨を暗殺して局長となり、
 幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、池田屋事件で長州藩尊攘派志士を襲撃して活躍する

 鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ江戸に帰り、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織する

 甲府で、新政府軍と戦い敗走し、下総国流山(千葉県流山市)で捕えられて、板橋で処刑された

 首級は京都に送られ三条河原に梟首された


 <辞世の句>
 漢詩(七言律詩)
 句碑が龍源寺境内の墓所にある
 「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 すい陽千古是吾儔
  靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺劔 只將一死報君恩」

 「孤軍 援(たす)け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る
    一片の丹衷 能(よ)く節に殉ず ?陽(すいよう)は千古是れ吾が儔(ともがら)
  他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
    快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん」


 <愛刀 長曽禰虎徹興里>
 講談などでの決め台詞「今宵の虎徹は血に餓えている」

【近藤勇ゆかりの地】

 <壬生寺
 壬生塚
 新選組隊士11人の墓所
 新選組局長 近藤勇の銅像と遺髪塔もある


 <八木邸
 壬生寺の東隣にある郷士 八木家の邸宅
 近藤勇・土方歳三らの宿所となり、新選組の屯所として使われた
 門前に新選組遺蹟新選組屯所遺蹟の石碑が立っている


 <新選組洛中最後の屋敷跡
 京都駅の北西、ハトヤ瑞鳳閣前に立つ石碑
 西本願寺を屯所としていた新選組が将軍 徳川慶喜の直属の軍隊となり、建立された新屋敷の跡地とされる


 <藤森神社
 本殿脇の御旗塚の上にある「いちいの木」と称される枯れた株
 腰痛にご利益があるといわれ、近藤勇も腰痛に悩まされてご祈願に通っていたといわれる


 <不動堂明王院
 「新選組の幻の屯所」
 不動堂村の堀川の東、木津屋橋の南に屯所があったとされるが正確な場所は不明

 <寶蔵寺
 近藤勇が帰依していたことから近藤勇の首塚が建立された

LINEで送る

【京都検定 第10回3級】

【京都検定 第13回1級】

[インデックス]


京都通メンバページ

写真:表示/非表示

フェイスブックでシェア LINEで送る

[目次]


[関連項目]


[協賛リンク]



[凡例]

赤字
 京都検定の出題事項
 (過去問は下段に掲載)

ピンク
 京都検定に出題された
項目へのリンク

青色紫色
 関連項目へのリンク