天授庵(てんじゅあん)は、南禅寺の境内の中央付近にある、山内で最も重要な塔頭
南禅寺を開山した大明国師 無関普門を祀る開山塔
江戸時代初期に、細川幽斎の援助を得て、細川家の菩提所として再建されている
<客殿(本堂)(京都市指定有形文化財)>
柿皮葺屋根の六間取方丈形式の建物
扁額「天授庵」が掲げられている
内部には、長谷川等伯の障壁画32面(重要文化財) で飾られている
六間取方丈形式で、東面して、西北隅に玄関がある
室中は、拭板敷
奥仏間は、正面1間が拭板敷、奥に仏壇、中央間は厨子があり、両脇壇に歴代細川家の位牌が祀られている
畳敷の上間2室、下間2室、上間南面の広縁背面寄り2間がある
正門から本堂へ、南北に鉤型鱗敷きの石畳(敷石)が敷かれてる
南側にも、本堂から細川幽斎の墓所に向かって石畳が敷かれている
1602年(皇紀2262)慶長7年
細川幽斎の援助を得て建立されたといわれる
当初は、仏間の背面に奥行一間の眠蔵が設けられていたといわれ、つき止め溝が用いられているなど、
平面や細部に中世の伝統的な様式が残る
1854年(皇紀2514)安政元年以降に、現在の仏間廻りになった
江戸時代初期における禅寺塔頭の典型的な客殿建築とされ価値が高いといわれる
<方丈前庭(東庭)>
方丈前の幾何学模様の石畳がある枯山水庭園
白砂の庭を、苔に縁取られた菱形の畳石が横切る
切石を組み合わせた直線的な構成は、小堀遠州の発案といわれる
<書院南庭>
書院前の池泉回遊式庭園で約千坪ほどの広さ
杉や常緑の松と紅葉の名所
明治時代に、僧・作庭家 虎山恭宗師により大幅に改修されているが、南北朝時代の面影を残す
東と西の大小2つの池が中央付近で細くつながり、滝・出島・石組・州浜などがある
池の全面にわたって護岸石組・蓬莱島・石橋・沢飛びが渡されている
<茶室「松関の席」>
細川幽斎好みの茶室跡に建てられている
妙喜庵茶室「待庵」を写した二畳隅炉
正面に塗廻しの床の間があり、左に1尺4寸の隅炉、二枚立襖、躙口がある
天井は竿縁天井、掛込天井
1畳の次間には、壁際に板畳、隅棚が吊されている
露地庭がある
1899年(皇紀2559)明治32年、福本超雲居士宅より移されたもの
10畳の広間「養素斎(ようそさい)」
1951年(皇紀2611)昭和26年に官休庵の愈好斎宗匠の好みにより改造されている
<表門(京都市指定有形文化財)>
禅宗様式
1602年(皇紀2262)慶長7年
細川幽斎の援助を得て建立されたといわれる
<庫裡>
1853年(皇紀2513)嘉永6年の再建
<書院>
嘉永年間(1848年〜1854年)に改築されている
<収蔵庫「普門殿」>
<墓所>
江戸時代の武将・歌人 細川幽斎夫妻のお墓
江戸時代初期の大名 肥後国熊本藩初代藩主 細川忠利の遺髪塔
細川家のお墓がある
江戸時代末期の尊王攘夷派漢詩人 梁川星巌と妻 紅蘭のお墓
江戸時代末期の熊本藩士・儒学者 横井小楠のお墓
江戸時代の新島襄の父親で武士 新島民治のお墓
江戸時代後期の日本画家 今尾景年のお墓
<石碑「開山大明国師霊光塔」>
門前に立っている
<木造 大明国師像(重要文化財)>
南禅寺の開山 無関普門の等身大の木像
<方丈障壁画32面 (重要文化財)>
長谷川等伯の筆の墨画
紙本墨画 禅機図「禅宗祖師図」16面
室中之間にある16面(182.5×143㎝)
唐の時代の南泉普願禅師が、左手に猫を持ち上げ、右手に剣を持ち、剣で猫の首を斬った逸話を描いている
執着心を捨てる禅の教えを表現した禅機図を長谷川等伯の独特の人物表現で描いた禅宗祖師図
紙本墨画 「画商山四皓図(しょうざんしこうず)」8面(上間二之間)
中国秦末の騒乱を避けて、商山の山中に隠棲した4人の高士が従者を伴いロバに乗る姿を描いたもの
大徳寺真珠庵にも同じ画題の障壁画が描かれている
紙本墨画 「松鶴図」8面(下間二之間)
<絹本着色 無関普門像(重要文化財)>
無関普門の自賛がある頂相(肖像画)
無関普門の生前に描かれた現存する唯一の寿像とされる
<絹本墨画淡彩聖(重要文化財)>
無関普門の師である円爾国師(えんにこくし)の自賛の像
円爾自賛像としては、最も初期のものとされる
<絹本着色 細川幽斎像(重要文化財)>
細川幽斎夫妻の肖像画が書院に並べて掛けられている
1612年(皇紀2272)慶長17年の以心崇伝の賛がある
<絹本着色 細川幽斎夫人像(重要文化財)>
夫妻の肖像画が書院に並べて掛けられている
1618年(皇紀2278)元和4年の雲嶽霊圭の賛がある
<絹本着色 平田慈均像2幅(重要文化財)>
東福寺の道山玄晟(どうざんげんじょう)(無関普門の法嗣)の法嗣である平田慈均(へいでんじきん)の頂相(肖像画)
平田慈均の晩年期の姿が描かれている
<天馬賦(てんばのふ)>
江戸時代中期の画家・書家 池大雅の書
<九条袈裟>
無関普門が用いたといわれる九条袈裟
中国 宋での滞在中に、無関普門の師から贈られたもの
<死霊の故事>
亀山上皇がこの地に離宮 禅林寺殿を営んでいたときに、夜に死霊が現れたといわれる
かつて、この地にあった最勝院に住んでいた駒道智大僧正が、死後もこの地に執着していたといわれる
南都北嶺の阿闍梨や、巫祝の呪術が行われるが、霊を退散させることはできなかった
東福寺の無関普門が呼ばれ、90日にわたり、20人の禅侶とともに離宮に宿泊して修行を行っていると、
死霊が現れなくなったといわれる
無関普門は、禅林寺殿を寺院南禅寺にするときに、開山に任じられ、亀山上皇も仁和寺の了遍により入飾した
しかし、無関普門が病気になり、住坊の東福寺の龍吟庵に移る
亀山上皇が龍吟庵に見舞いにいき、自ら薬を与えたといわれる