藤原俊成(ふじわらのとしなり)(Toshinari Fujiwara)

藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家・歌人

生年:1114年(皇紀1774)永久2年
没年:1204年(皇紀1864)元久元年11月30日
享年:91

父親:権中納言 藤原俊忠(藤原北家 御子左流)
母親:藤原敦家の娘
養父:藤原顕頼

妻:美福門院加賀・藤原為忠の娘・藤原顕良の娘ほか
子供:藤原成家・藤原定家・建春門院中納言・後白河院京極局ほか

法名:釈阿(しゃくあ)

官位:正三位・皇太后宮大夫

別名:五条三位・五条三位入道

別称:ふじわらのしゅんぜい

通称:皇太后宮大夫俊成

お墓:

 藤原俊成(ふじわらのとしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家・歌人

 後白河法皇の院宣を受けて、第七勅撰集「千載和歌集」の撰者となる

【藤原俊成の歴史・経緯】

【藤原俊成の歌風】

 <採録>
 「詞花和歌集」において、「藤原顕広」の名前で初入集する
 それ以降、「千載和歌集」に36首、「新古今和歌集」に72首、新勅撰和歌集に35首が採られるなど、
 勅撰二十一代集として合計422首が採録され、採録数は、紀貫之藤原定家に次いで歴代歌人3位

 後鳥羽上皇の再興した和歌所の寄人にも加えられ、歌壇の長老の地位を築いた

 <歌風>
 「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」などと評された
 格調高く深みのある余情美を特徴としている
 美しさの中に奥深い味わいを表現する「余情幽玄」の世界を歌の理想とする
 古歌や物語の情景・心情を歌に映し、奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した

 <後鳥羽上皇「後鳥羽院御口伝」>
 「釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」
 「これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる」
 「釈阿・西行などが最上の秀歌は、詞も優にやさしきうへ、心ことにふかくいはれもある故に、人の口にある歌勝計すべからず」
 などと評価が記されている

 <撰者>
 後白河上皇の院宣により「千載和歌集」を撰進する

 <家集>
 「長秋詠藻」 六家集の一つ
 「俊成家集(長秋草)」
 「保延のころほひ」
 等

 <歌論書・秀歌撰>
 「古来風躰抄(こらいふうたいしょう)」「古今問答」「万葉集時代考」「正治奏状」「三十六人歌合」等

 <弟子>
 息子 藤原定家、甥 寂蓮・藤原家隆後鳥羽上皇・九条良経・式子内親王など優秀な歌人を多数輩出した
 新古今和歌集の歌風形成に大きな役割を果たしたとされる

 <「幽玄」「艶」>
 歌合の判詞の中で用いられ、歌道から能楽茶道など日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった

【藤原俊成の主な歌】

 <小倉百人一首
 小倉百人一首第83番 皇太后宮大夫俊成(「千載和歌集」雑1148)
 「世の中よ 道こそなけれ 思ひいる 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」

 27歳の時に詠んだ「述懐百首」の中で、鹿をテーマにしたもの
  「この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ
  思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる」


 <新古今和歌集
 「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」
 「昔思ふ草の庵の夜の雨に涙なそへそ山ほととぎす」


 <千載和歌集>
 「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」

【藤原俊成のゆかりの地】

 <俊成社
 五条通(現在の烏丸通松原一帯)にあったといわれる藤原俊成邸跡に、祭神として祀られている
 「俊成町」という地名にもなっている

 <住吉神社
 後白河天皇が、和歌の祭神を平安京に勧請するために、
 勅命により、藤原俊成が、五条室町の邸内に摂津国 住吉より分祀して創建し、「新住吉神社」と称した

 <新玉津嶋神社
 藤原俊成が、和歌山の玉津嶋神社の祭神を自邸内に勧請し祀ったのが由来

 <小倉百人一首文芸苑 嵐山東地区
 小倉百人一首第83番 皇太后宮大夫俊成(「千載和歌集」雑1148)
 「世の中よ 道こそなけれ 思ひいる 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」の歌碑がある

 <伏見 山科川
 「都いでて 伏見を超ゆる明方は まづうちわたす ひつ河の橋」(新勅撰和歌集)と詠われている

 <大田神社
 「神山や 大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」(五社百首歌)と詠われている

 <八坂神社
 「霧の内もまつ面影に たてるかな西の御門の石のきさはし」と詠われている

 <松尾寺
 「秋ふかみ 青葉の山も 葉せり なこそ時雨の 染めじと思ふに」と詠われている

【藤原俊成の家系】

 藤原北家 御子左流 権中納言 藤原俊忠の息子
 藤原道長の玄孫にあたる

 義兄の勧修寺流 藤原顕頼の猶子となり、「顕広(あきひろ)」と改名

 後に実家の御子左家に戻り、「俊成」と改名した

 <妻 美福門院加賀>
 藤原親忠の娘
 鳥羽天皇皇后 美福門院(藤原得子)に仕え、「美福門院加賀」と称された
 皇后宮少進為経(寂超)の妻となり隆信を生む
 為経が出家した後、俊成と再婚した
 子供は、藤原成家・藤原定家・八条院三条・高松院新大納言(祗王御前)ほか

 <妻 藤原為忠の娘>
 子供は、快雲・後白河院京極局

 <妻 六条院宣旨(藤原顕良の娘)>
 子供は、八条院坊門局

 他に妻が数名、子供も多く授かる


 <養子>
 建春門院左京大夫(兄弟 禅智法師の娘)(姪)
 寂蓮(藤原定長)(兄弟 藤原俊海の息子)(甥)
 忠賢(従兄弟 藤原長基の息子)
 藤原俊成女(娘 八条院三条と藤原盛頼との娘)(孫)

【その他】

 <「平家物語」巻七「忠度都落」>
 平清盛の末弟 平忠度は、俊成に師事し歌人としても才能があった
 1183年(皇紀1843)寿永2年7月に平家一門が都落ちした後、平忠度は、従者6人と都に引き返して俊成の邸を訪れ、
 「争乱が収まれば改めて勅撰和歌集を作るようにとの院宣が出るでしょう
 もし、この巻物の中に勅撰和歌集にふさわしい歌があるならば、一首でも入れてもらえると、あの世にいても嬉しく、
 遠いあの世からお守りする者になりましょう」と、百首ほど収められた巻物を俊成に託して行く
 翌年、平忠度は一ノ谷の戦いで戦死してしまう
 その巻物には、勅撰和歌集にふさわしい秀歌が多く収められていたが、平忠度は朝廷の敵でもあったため、
 俊成は、平忠度の歌を「詠み人知らず」として一首のみ「千載和歌集」に載せた
 その加護があったのか、既に70歳近かった俊成は、更に20年余り生きたとされる


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