地図情報
安祥寺(あんしょうじ)は、山科の北部、琵琶湖疏水沿いにある寺院
仁明天皇の娘で文徳天皇の母親 藤原順子が創建し、定額寺となる
紀伊高野山宝生院兼帯所にもなり「高野堂」とも称せられる
琵琶湖疏水沿いの付近は桜の名所
<安祥寺橋>
琵琶湖疏水が流れている
<薬医門>
一間薬医門、切妻造、本瓦葺
元禄年間(1688年~1704年)
本坊の表門として建立される
1962年(皇紀2622)昭和37年
琵琶湖疏水によって境内が南北に2分され、
南側にあった本坊・鐘楼と共に現在の地に移築される
<観音堂(本堂)>
本尊 木造 十一面観音菩薩立像、四天王立像、徳川家康像などが祀られている
桁行3間、梁間3間、入母屋造、桟瓦葺、向拝一間付
内部は一室の空間となっており、中央二本の柱で厨子が構成される
1702年(皇紀2362)元禄15年に記された「山州名跡誌」には
「堂南向本尊十一面観音菩薩 五智如来安同堂内」と記されている
1817年(皇紀2477)文化14年
現在の本堂が再建される
<地蔵堂>
本堂手前の東側
地蔵菩薩が祀られている
間口3間、奥行3間、宝形造桟瓦葺、向拝一間付
天井の格間には極彩色の花卉の絵が描かれている
1772年(皇紀2432)安永元年の建立
<大師堂>
本堂手前の東側
弘法大師像、開基 恵運僧都、安祥寺流々祖 宗意律師などが祀られている
桁行3間、梁間3間、寄棟造、本瓦葺、向拝一間付
1773年(皇紀2433)安永2年の建立
<鐘楼>
表門の東南にある
宝暦年間(1751年~1764年)の建立
梵鐘(京都府指定文化財)
1306年(皇紀1966)嘉元4年
摂州渡邊安曇寺の鐘として鋳造される
豊臣秀吉朝鮮出兵のとき、陣鐘として差し出された鐘の一つで、
返納の時に誤って安曇寺の鐘が返送されたといわれる
<青龍権現社(青龍殿)>
本堂の北西奥にある
祭神:青龍
間口170cmほど、一間社流造、銅板葺
一段高くなった所に、石垣を組んで堀をめぐらした方形の敷地の中にある
雌雄の龍が天に昇る姿を苔で表現した庭園「蘚苔蟠龍(せんたいばんりゅう)」があり、この地を守っているといわれる
御利益:金運・開運・仕事運・勝負運
開基 恵運僧都が創建するときに、青龍の御體を鎮守として祀られた
1594年(皇紀2254)文禄3年
木食応其上人によって再建される
1619年(皇紀2279)元和5年
現在の地に移築される
1853年(皇紀2513)嘉永6年
現在の社殿が再建される
<五智遍明庭(ごちへんみょうてい)>
中央の5石が五智如来を、白砂・石・木々が生きとし生ける一切衆生を表しているとされる
<弁天社>
山からの水を引いた池の浮島にある
梁桁2尺、一間社流造
1925年(皇紀2585)大正14年の再建
1998年(皇紀2658)平成10年 解体修復が行われている
<十二所神社>
<多宝塔跡>
地蔵堂の北の一段高い造成地にあり、石積基壇・礎石・石階段・縁石・塔前灯篭などが残っている
総高7丈5尺(約23m)、2丈4尺5寸(約8m)四面の二重宝塔
塔内には、安祥寺開創時に上寺伽藍の礼仏堂本尊であった五智如来坐像(国宝)が祀られていた
1759年(皇紀2419)宝暦9年の再建
1906年(皇紀2566)明治39年11月8日に焼失
国宝に5躯(五智如来坐像)、その他、重要文化財に1躯(十一面観音立像)が指定されている
<木造 五智如来坐像 5躯(国宝)>
焼失以前の多宝塔に安置されていたもの
大日如来を中心とする金剛界の五仏
平安時代初期の安祥寺創建時の制作といわれる
本尊 金剛界大日如来坐像は、高さ約5尺2寸・台座高約3尺8寸
他の4仏も、高さ約3尺5寸〜3尺6寸もある大きなもの
仁寿年間(851年~854年)頃の造像といわれる
1906年(皇紀2566)明治39年11月の火事の直前に京都国立博物館に寄託されている
1910年(皇紀2570)明治43年8月29日 重要文化財に指定される
2019年(皇紀2679)令和元年7月23日 国宝に指定される
<木造 十一面観音立像(いちめんかんのんりゅうぞう)1躯(重要文化財)>
本堂に安置されている本尊の十一面観音立像
奈良時代の作
像高252.5cm、台座を含めた総高は311.5cm
前方に湾曲した榧の一木を用いて、その湾曲をそのまま頭部の前傾としている一木造
漆箔仕上げ
江戸時代後期の御詠歌に「けしほどの 願いもかのう 安祥寺 大悲の御代に 救いまします」と詠まれている
2011年(皇紀2671)平成23年6月27日 重要文化財に指定される
<四天王像>
観音堂(本堂)須弥壇の左右に一列に祀られている
憤怒形で岩座の上に立つ姿
像高152.7cmから165.5cm
止利仏師の作といわれる
<地蔵菩薩座像>
地蔵堂に安置されている
像高134cm、寄木造、蓮華台座69.3cm
開基 恵運僧都によって中国より持ち帰られた請来仏といわれるが、
鎌倉時代後期の作であるとされる
<蟠龍石柱>
中国 唐時代のもの
京都国立博物館に寄託されている
<五大虚空蔵菩薩像(重要文化財)>
東寺観智院に安置されている
恵運が唐から請来したもの
<徳川家康坐像>
観音堂本尊厨子の裏堂厨子内に安置されている徳川家康の坐像
像高約46cm
厨子扉の内側には日光菩薩・月光菩薩が描かれている
<木造 弘法大師像>
像高82cm
江戸時代中期の仏師 清水隆慶作といわれる
<蟠龍石柱>
三匹の龍が彫刻されている
漢白玉製、高さ105cm
入唐僧 恵萼によって中国より請来された「仏頂尊勝陀羅尼石童一基」が建てられていた石柱の一部
中国 唐時代の京幾様式石灯籠の竿部の石柱
1953年(皇紀2613)昭和28年
青龍殿内から発見される
<安祥寺資財帳(重要文化財)>
南北朝時代のもの
京都大学によりにより所蔵されている
<安祥寺伽藍縁起資財帳>
867年(皇紀1527)貞観9年
恵運により作成される
安祥寺の来歴・恵雲・仏像・経典・建物・仏具・財物・文書などが記されている
東寺により所蔵される
<安祥寺上寺跡(あんしょうじかみでらあと)>
所在地:山科区御陵沢ノ川町
現在の安祥寺の北方約1.7kmの国有林山腹の標高約330mあたりの「観音平」と称される尾根の上にある
平坦地は、東西約40m南北約60mで、急斜面で谷に落ち込んでいる
当時は、礼仏堂・五大堂・東西僧房・庫裏・浴堂などがあったといわれる
現在の上寺跡には、中央の礼仏堂の基壇跡(東西約21m・南北約15m)と、
北方に五大堂の基壇跡、東僧坊跡(東西約4.2m・南北16.2m)、
西僧坊跡(東西約4.8m・南北約16.2m)、方形堂跡(東西約5.7m、南北約6.3m)、が残り、
各々の軒廊礎石跡、平安時代の瓦などが出土している
上寺跡の北部の峰に、経塚などが残されている
<安祥寺下寺跡>
1993年(皇紀2653)平成5年
JR山科駅付近の発掘調査により、9世紀後半の下寺の木炭木槨墓の一部、副葬品の龍の紋様の白銅鏡片、
乾漆製品の一部、銭貨などが発見された
木炭木槨墓は、地面に長方形の穴(墓壙)を掘り、木棺の底面、木槨と木棺の周囲に木炭が敷き詰められていた
周りには副葬品が納められ、封土されていた
<木瓜(ぼけ)>
木に棘(とげ)があり、小さく鮮やかな赤い花をつける
3月上旬〜4月上旬に咲く花の名所
<恵運(えうん)>
平安時代前期の真言宗の僧
入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・円珍・宗叡)の一人
通称は「安祥寺僧都」
798年(皇紀1458)延暦17年、京都に生まれる
東大寺泰基・薬師寺仲継に法相教学を学ぶ
824年(皇紀1484)天長元年、東寺の実恵(じちえ)に師事し、灌頂を受ける
842年(皇紀1502)承和9年、最澄らと共に唐に渡り、五台山・天台山を巡拝し、青竜寺の義真に灌頂を受ける
847年(皇紀1507)承和14年、儀軌・経論・仏菩薩祖師像を持って帰国、八家請来目録を呈上する
848年(皇紀1508)嘉祥元年、安祥寺を開く
861年(皇紀1521)貞観3年、東大寺大仏修理落慶供養の導師を務める
869年(皇紀1529)貞観11年、死去する
<藤原順子>
第54代 仁明天皇の女御、第55代 文徳天皇の母親
「五条后」と称された
809年(皇紀1469)大同4年、藤原冬嗣と藤原美都子の娘として生まれる
仁明天皇の東宮時代に後宮に入る
827年(皇紀1487)天長4年、道康親王(後の文徳天皇)を生む
833年(皇紀1493)天長10年、仁明天皇の即位に伴い、女御となり従四位に叙される
850年(皇紀1510)嘉祥3年、文徳天皇の即位により皇太夫人となる
854年(皇紀1514)斉衡元年、 皇太后となる
文徳天皇の崩御の後、東大寺戒壇諸僧から大乗戒、天台座主円仁により菩薩戒を受ける
861年(皇紀1521)貞観3年、落飾、受戒する
864年(皇紀1524)貞観6年、太皇太后となる
871年(皇紀1531)貞観13年、死去され、安祥寺の北の山腹の後山階陵に葬られる
<宗意>
平安時代後期の僧で、真言宗小野流三派の一つ安祥寺流(安流)の祖
安祥寺下寺の中興の祖となる
1074年(皇紀1734)承保元年、生まれ
1148年(皇紀1808)久安4年、死去