 地図情報
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 <粟島大明神社>
 水商売の女性から信仰されている
 厄除け・開運・病気平癒が祈願される
 糸瓜(へちま)に病気を譲渡し、病気を封じるへちま加持の祈祷が行われる
 <水子地蔵尊>
 <子育て地蔵尊>
 子供の健全な成長を祈念して建立された仏像
 子孫の健康・長寿を祈願して、一つの願いにつき水を七度掛けて尊像の身を清めご利益をいただく
 <修行大師尊像>
 全国行脚の姿の弘法大師の像
 仏道精進修行が健康で他人の為・社会の為になれる事を祈願して、一つの願いにつき水を七度掛けて、
尊像の身を清めご利益をいただく
 <百年夫婦桜>
 樹齢100年を越える染井吉野(ソメイヨシノ)の巨木
 根本からはモミジの木が生えている
 秋には、桜の黄葉と、モミジの紅葉が競演する
 <丈六釈迦如来像(重要文化財)>
 本尊
 鎌倉時代の仏師 運慶(うんけい)と湛慶親子の合作
 宋風の極彩色の木像寄木造
 京都八釈迦の一つ
 像高は、約5.4m(一丈八尺)、台座から光背を含めると約10m(三丈三尺)になる
 「大きな仏像」という意味で、「丈六さん」と称され、親しまれている
 後陽成天皇の皇后の崇敬や、後水尾天皇の守護仏としても深く信仰されていた
 「身代りお釈迦様」の故事
 首の辺りに、血が流れたように見える跡がある
 第108代 後水尾天皇が東宮の時代、即位争いに巻き込まれ、ある夜、暗殺者に寝首を斬られてしまう
 が、血を流していたのは、身代りになられた丈六釈迦如来像だったといわれる
 その後、無事に即位された後水尾天皇は、事あるごとに丈六釈迦如来の身代りに守られ、
歴代天皇の中でも稀な長命を全うされたといわれる
 「身代りお釈迦様」と称され、「悪しき事の身代り」「首から上の病気、のどの病気を治してくださる」と崇められる
 <泉山融通弁財天>
 泉山七福神巡りの第二番
 泉山融通弁財天は、金銭の融通をして下さる弁天様
 学芸・商売や、「融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さる」と信仰されている
 伝教大師 最澄の作といわれる秘仏
 ご開帳は、1月の成人の日の七福神巡りと、11月3日の弁財天大祭の年2回のみ
 <曇照忍律上人坐像(重要文化財)>
 戒光寺開山の木像
 鎌倉時代の作
 イギリス 大英博物館に鎌倉時代の代表的彫刻として紹介される
 <木像 不動明王像>
 通常、不動明王像は岩座を踏みしめているが、足の裏を見ることができる珍しい像
 鎌倉時代より以前の作といわれる
 <お釈迦様一代記>
 本堂内陣の左右の壁にかけられている絵
 お釈迦様の誕生から死去までに起こった、不思議な出来事や故事が、絵で綴られている
 <泉山融通弁財天大祭>
 11月3日
 稚児百味練供養と大柴燈護摩供法要が行われる
 秘仏 泉山融通弁財天が御開帳される
 <戒光寺御陵衛士墓所>
 油小路の変において暗殺された高台寺党の御陵衛士4名の墓碑が立っている
 正面左から毛内監物・伊東甲子太郎・藤堂平助・服部三郎兵衛の墓碑
 幕末維新
 新選組において、近藤勇・土方歳三派と伊東甲子太郎・山南敬助派に分かれ、
 後に、幕府の幕臣になりつつあったため、勤皇派だった伊東甲子太郎達は、別の組織を作ろうとする
 1866年(皇紀2526)慶応2年12月25日
 孝明天皇が崩御される
 1867年(皇紀2527)慶応3年
 戒光寺の堪然長老によって、孝明天皇の御陵を警備するという名目で禁裏御陵衛士が組織され、
新選組参謀 伊東甲子太郎など15名が脱退し参加する
 高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、のち「高台寺党」と称される
 同年11月18日 油小路の変
 伊東甲子太郎が帰宅中に、七条油小路通で待ち伏せしていた新選組隊士数名に襲われ暗殺される(享年32)
 騒然となった御陵衛士たちが、七条油小路通に伊東甲子太郎の遺体を引き取りに行くが、
新選組数十名に待ち伏せ包囲され、藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死する
 壬生寺に葬られる
 1868年(皇紀2528)明治元年
 戒光寺に改葬される
 1869年(皇紀2529)明治2年
 墓碑が立てられ、毛内監物の出身 弘前藩から石香炉・手水場が寄進される