函谷鉾(かんこぼこ)(KankoBoko)

鉾町:京都市下京区四条烏丸西入ル函谷鉾町   名所地図情報名所

山鉾:鉾

大きさ:地上から屋根まで約8m・地上から鉾頭まで約24m
重量:11.39トン(3位)(2008年(皇紀2668)平成20年7月17日巡行時に測定)

特徴:真木先端の山形と三日月

くじ取らず:鉾2番(全体では5番目、鉾では長刀鉾に次いで2番目)

旧称:かんこくぼこ

 函谷鉾(かんこほこ)は、祇園祭における山鉾の一つの鉾
 応仁の乱以前から立つ

 中国戦国時代 孟嘗君が、函谷関で家来に鶏の鳴声を真似させて関門を開かせ難を逃れた故事にちなむ鉾
 かつては、「かんこくぼこ」と称されていた

 かつての生稚児から、最初に稚児人形を乗せた鉾
 曳き初めと巡行以外での女人禁制を最初に解いた革新的な鉾

【函谷鉾の歴史・経緯】


【函谷鉾の名前の由来】

 中国の史記「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」による故事にちなむ
 中国の戦国時代(紀元前403年〜221年)
 斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が、泰の国の昭王に招かれて宰相となったが、讒言によって陥れられ逃亡を図る
 深夜に、函谷関(かんこくかん)に着いたが、関門が、早朝の鶏の鳴き声で開くことになっており、足止めをくらい危機が迫ってきた
 孟嘗君は、家来に鶏の鳴き声の真似をさせたところ、本物の鶏も同調して鳴き、関門が開いて難を逃れたという

 中国 黄河の中流地域「函谷関(かんこくかん)」に関する山鉾に、鯉山がある





【函谷鉾の装飾品】

 <稚児人形>
 「嘉多丸(かたまる)」と称される
 明治天皇の后 昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の実兄 一条実良(いちじょうさねよし)がモデル
 身長120cm、檜材
 1839年(皇紀2499)天保10年の再興のときの製作

 函谷鉾町は、南側半分が松平阿波守の御屋敷、北側半分が鴻池の宅地で、町人の家が少なく、稚児を出せる家が少なかった
 以前に函谷鉾町に住んでいた大仏師 七条左京が、木偶による人形稚児をもって稚児とする許可を得て、
山鉾の中で最初に人形稚児を乗せた

 年頃だった左大臣 一条忠香の長男 一条実良をモデルとした稚児人形が完成したとき、一条忠香は「嘉多丸」と命名され、
御神号「祇園牛頭天王」の御筆掛軸と、下着・襦袢・振袖・差貫(袴)・狩衣(かりぎぬ)の稚児衣装一式を函谷鉾町に寄贈された

 祇園祭の期間中は、豪華な金襴の装いで、7月18日から6月30まで、普段着の振袖に着替えられる

 <真木>
 約22m
 上から順に、鉾頭(ほこがしら)・大幡(おおはた)・天王座(てんのうざ)・関・角幡(かくはた)・榊・しゃぐま・しゃぐま垂れ・
網隠し(あみかくし)などの真木飾りがある

 <鉾頭(ほこがしら)>
 孟嘗君の故事から、函谷関の山稜にかかる三日月と、山稜を表わす山形が、山中の闇を表している

 三日月は、真木先端に2枚の山形の頭頂部に挟まれて取り付けられる
 1677年(皇紀2337)延宝5年に製作されたものが残る
 1839年(皇紀2499)天保10年に三日月が新調される
 両端約30cmの白銅銀鍍金製

 三角形の山形は、白麻を2枚、底辺約63cmの竹骨に合わせて真木先端に取り付けられる

 <大幡(おおはた)>
 鉾頭から約2m下に取付けられる
 縦約150cm、幅約12cmの赤地に白い子筋を持つ

 <天王座(てんのうざ)>
 大幡の下に、木製の小屋根が付けられ、その1mほど下に「岩」と称される台があり、孟嘗君(もうしょうくん)が祀られている
 身長約27cm、金襴唐装束の木彫彩色塗り、右手に剣を持ち、左手をかざして月を見る姿
 その下に、雌雄(しゆう)の鶏が祀られている

 <関>
 長さ約80cm、幅15mmほどの黒塗りの割り竹を縦横30cmほどの底板を挟み、真木を中心に束ねたもの
 下部の30cmほどを真木にロープで巻かれ固定されている
 板の上部には、黒塗り割竹の先を10cmほど突き出して石垣模様の布を巻き、函谷関の関所を表わしている
 板の上には、真鍮製で金鍍金された雌雄(しゆう)の鶏が祀られている

 <角幡(かくはた)>
 関のすぐ下
 藍地の縦45cm、横30cmほど、白い子持ち筋と唐花紋(帽額紋)(木瓜紋)が白く染め抜かれた角幡
 風にひらひらと泳ぐ

 <しゃぐま>
 本真木と竹真木との、2ヶ所の繋ぎの部分を補強するために縄が巻かれている縄の飾り結び
 角幡から下が、櫓本体から2本繋いだ本真木
 角幡から上は竹真木
 2ヶ所の繋ぎは、水平部分と、斜めに切れ込み部分がある
 飾り結びは、島田の髷(まげ)のような形をしており、鉾によって形状が異なる
 函谷鉾では7つ施される

 <榊>
 しゃぐまの上から五番目と六番目の間に榊が付けられる
 榊受け台に扇形の支持枠で固定され、やや上方に広がり、活けるような形で取り付けられる
 他の鉾のように、左右にはっきりと分かれた状態にはならない
 榊には、役員の手作りの無数の紙垂(しで)(白い紙の御幣)が付けられる
 真木は、神の依り代(よりしろ)(神さんが宿るところ)とされ、真木の中央のところには御幣が付けられる

 <網隠し>
 榊のすぐ下から屋根にかけてある、紅い三角帽子のようなもの
 真木を支持固定するために櫓本体の上部四隅に渡される禿柱(かむろばしら)や縄を隠すためのもの
 函谷鉾では、緋羅紗地の前面に唐花紋、後面に巴紋の神紋が白く付けられる

 <しゃぐま垂れ>
 網隠しの上端に付けられる紺色の飾り付け

 <屋根裏 金地著彩 鶏鴉図(きんじちゃくさい けいあず)>
 明治画壇の巨匠 今尾景年の筆
 鉾の前の軒裏には、金地に雄一羽、雌二羽、雛二羽の鶏
 後の軒裏には、五羽の鴉(からす)の鶏鴉図がある
 前部には、極彩色の鶏で夜明けの鳴き声(陽)と、後部に、墨絵の明鴉(あけがらす)(陰)が描かれており、
夜明け前の函谷関を無事脱出できた故事を表している
 1900年(皇紀2560)明治33年
 円山四条派今尾景年の筆により新調される

 <屋根裏 彫刻>
 軒裏の金地の三角形の妻板の前に施されている彫刻
 前には、木彫極彩色の中国北宋の詩人 林和靖(りんなせい)が唐団扇を持ち、童子が梅の木の下で白鶴に餌を与える図
 後には、白牡丹と荒波に亀の図になっている
 1849年(皇紀2509)嘉永2年
 柴田杢之助の作

 <化粧柱>
 屋根が、囃子屋台上から4本の化粧柱によって支えられており、
 巡行のときには、屋根方が、電柱・電線・民家などの障害物を屋根を水平方向にずらして避ける
 1903年(皇紀2563)明治36年
 左右の前二本に、今尾景年下絵による菊花模様厚彫が施されている

 <虹梁(こうりょう)>
 4本の化粧柱の上端に梁を渡して屋根を支えている梁のうち、正面天水引の上の梁
 今尾景年の下絵による雲鶴有職風霞鍍金彫金が施されている

 <破風(はぶ)>
 切妻屋根の先端に「東、北流れ」「東、南流れ」「西、北流れ」「西、南流れ」の四つの部材に、消滅金浮彫で茅負(かやおい)に
雲形模様、見付に桐が彫られ飾られる
 南北の流れが合わさる拝み(頂部)と、左右に流れる中ほどの三ヶ所に、金銅透かし彫りの鳳凰の八双金物が付けられる
 両端は、唐草が彫られ、懸魚(げぎょ)は、三つ花で菊の丸彫りの鰭が付いている
 下絵は、円山派の國井應文(くにいおうぶん)、錺師(かざりし)は油小路七条の中野喜兵衛
 彫金師は、丸太町釜座の佐々木嘉兵衛
 1884年(皇紀2544)明治17年に前面(東)が新調される
 1885年(皇紀2545)明治18年に後面(西)が新調される

 <垂木(たるき)>
 屋根裏の外側に、飛檐垂木(ひえんたるき)20本、内側に地垂木(じたるき)20本、南北(左右)それぞれ40本の繁垂木が、
7枚の屋根板とともに軒先が飾られる
 牡丹彫刻の鼻金物の先には木瓜紋、巴紋の祇園神紋が彫られている

 <垂木間の広小舞(ひろこまい)>
 軒の外側の飛檐垂木が並ぶ間の広小舞金物
 國井應文の下絵によるもの
 鉾の前から後へ、水葵(みずあおい)・海棠(かいどう)・杜若・紅葉・鉄仙(てっせん)・桜・水仙・牡丹・時計草・皐月・桔梗・
秋海棠(しゅうかいどう)・百合・薔薇・梅・山茶花(さざんか)・芙蓉南天・海棠の四季草花が、精巧に地彫透し厚彫しされている
 錺師は、中野喜兵衛、彫金師は、寺町五条の田中光太郎

 1884年(皇紀2544)明治17年から2年間で新調された破風と垂木、広小舞金物の鍍金滅金には、純金1275gが使われている

 <獅子口>
 北流れ、南流れの屋根の合せ目(屋根の最頂部)には、黒輪違互形の透かし彫の箱棟がある
 その前後の棟先の獅子口には、経の巻三巻
 獅子口の鰭(ひれ)には雲形の金箔押し金物が左右に流れる

 <欄縁>
 飾り金具が施されている
 1982年(皇紀2642)昭和57年
 蓮田修吾郎の下絵により、「梅と鶯」・松・竹がロスト・ワックス技法による精密鋳造技術で製作されている

 <隅房掛金物>
 約30cmほどの極彩色金箔置木彫の源氏蝶
 金糸の長い丸くみひもを、上からあげまき・蝶・桐紋などが組まれている
 房の先は長く、胴懸の下部まである

 <前懸(重要文化財)>
 羊毛を使って織った貴重なゴブラン織りの毛綴織(タペストリ)
 大きさ:縦272.5cm×横220cmで、祇園祭の前懸としては最大のもの
 16世紀にベルギーで製作されたもの
 図柄は、旧約聖書の創世記第24章にある物語の「イサクに水を供するリベカ」
 イスラエルの信仰の父 アブラハムの息子 イサクの嫁選びの様子が描かれている
 アブラハム家の老僕エリアザルが、水くみの娘リベカから水を受け、
 右上には、騎馬に乗ったイサクが描かれている
 下半部には、物語の続きとなる、リベカに婚約の腕輪を贈っている様子が描かれている

 裏面に「亨保三年戉戌六月吉日再興」と書かれている
 1718年(皇紀2378)享保3年
 当時の町内在住の沼津宇右衛門が、祇園祭のために寄贈されたもの

 1925年(皇紀2585)大正14年
 「大正十四年六月吉日再修繕」と墨書がある

 2006年(皇紀2666)平成18年
 保存会設立40周年記念事業として復元新調される
 龍村美術織物販売が、ベルギー王立美術館の意見や、同時代に作られたタペストリーを参考に、2年がかりで54の色合いを
鮮やかによみがえさせた

 巡行のときには、下前懸と水引の上からこの前懸を掛けられ、前面全部が一枚の絵となる
 キリシタン禁制の江戸時代も、旧約聖書の絵を掛け堂々と巡行していた

 下前懸の「モン・サン・ミッシェル」
 フランス・ノルマンディの海岸に浮かぶ世界遺産の聖堂・飛行船・気球が描かれている
 1998年(皇紀2658)平成10年
 染織家 皆川泰蔵より寄贈を受ける

 <見送>
 弘法大師の真筆といわれる紺地金泥(こんじきんでい)の金剛界礼懺文(こんごうかいらいざん)と、
 天保年間(1830年〜1844年)の再興時に、河辺延之が、これを模織(もしょく)したものがある
 現在は、染織家 皆川泰蔵の作の「エジプト天空図」が用いられている

 金剛界礼懺文(こんごうかいらいさんもん)(弘法太子大師真筆写紺地金文字織)の紺地金泥刺繍
 1838年(皇紀2498)天保9年
 蘭医 小森縫殿介(ぬいどのすけ)の寄付により、弘法大師の真蹟写といわれる風光帖(ふうこうじょう)をもとに、
大師流書家 山本嘉之らが筆写し、上立売浄福寺西入の近江屋新右衛門が製織
 文字の紋織は紋屋辰五郎による
 1839年(皇紀2499)天保10年に完成したといわれる

 「性霊集(しょうりょうしゅう)」「金剛界礼懺文(こんごうかいらいさんもん)」「秘蔵記」
「金剛頂比瑜伽中略出念誦経(こんごうちょうゆがちゅうりゃくしゅつねんじゅきょう)」など
密教経典や弘法大師の書物からの引用された金剛界礼懺文が書かれている
 文字柄の見送りは珍しいもの(他には郭巨山のみ)

 1805年(皇紀2465)文化2年
 右近衛大将 藤原愛徳と、儒学者 皆川淇園が、弘法大師の真蹟を、版木に写し残すため製作され、「風光帖」と名付けた
 この刷本「風光帖」は、京都府立資料館に一冊のみある

 現在の見送「エジプト天空図」
 大きさ380cm×230cm
 スカラベや、タカの造形飾り金具が、最上部に大きな見送房一対とともに4つ、最下部に見送裾房とともに10個付けられている

 「徐えん」の見送
 中国 明の嘉靖31年(1552年)の製作
 府学教授 徐えんが、青州知事 劉抑隅が中央官庁へ栄転するのを祝する文を、濃紺地に金泥で揮毫している

 <上水引>
 屋根の回りの梁から四本の化粧柱を囲み、欄縁に座る囃子方の頭上を囲むように掛けられる

 上水引「赤」
 巡行用
 緋羅紗地に金縫神紋が切り付られたもの
 鉾の前面、後面に帽額紋(唐花紋)が2つあり、金色の房が2本垂らされる
 左右面には、2つの帽額紋の間に巴紋が入る

 上水引「水色」
 12日の曳き初めから、宵山まで用いられる
 色緞子地に緋色の神紋が切り付けられたもの

 上水引「翠簾(すいれん)」
 12日の曳き初めのときだけ用いられる
 左右両端の簾(すだれ)が長めに巻き上げられ、中央は幅広で短く巻き上げられ、簾の縁には緑地に白く帽額紋(木瓜紋)があり、
上縁の神紋の間には源氏蝶の刺繍がある
 馬渕冨之助の作

 <下水引>
 欄縁のすぐ下に掛けられ、胴懸、前懸などの上部を飾る

 下水引「群鶏草花図」
 笛方が並ぶ左右の欄縁のすぐ下の水引
 孟嘗君の故事にちなみ、鶏の様々な姿態が表された鶏の群れと草花の図
 1938年(皇紀2598)昭和13年
 山鹿清華(やまがせいか)の手織錦

 下水引「雲竜文」
 朱地に金雲丸龍の錦織
 前懸や見送に隠れて、ほとんど見えない
 1899年(皇紀2559)明治32年
 紫地蜀江鳳凰文と、赤地金洋花文の2枚の水引が、東西(前後)それぞれ二枚づつ製作された
 1983年(皇紀2643)昭和58年に復元新調される

 <胴懸>
 北流れ(笛方側)(左側)と南流れ(鉦方側)(右側)に、それぞれ三種類、同じものが前から順に掛けられている三枚継ぎ
 「梅に虎図」
 17世紀、李朝製の朝鮮段通
 斜目の格子額の中に、太い幹の梅樹と、大虎が織り出されている
 大きさは、111cm×175cm
 1991年(皇紀2651)平成3年に復元新調される

 「華文コーカサス緞通」
 華文唐草模様のペルシャ絨毯
 大きさは、148cm×182cm
 1990年(皇紀2650)平成2年に復元新調される

 「玉取獅子文中国緞通」
 アラビア文字額の中に玉取り獅子がある中国段通
 「玉取獅子」は、雌雄の獅子がじゃれ合うと、その毛玉から立派な獅子が生まれる様子を表す
 大きさは、108cm×171cm
 1641年(皇紀2301)寛永18年製
 1991年(皇紀2651)平成3年に復元新調される

 <裾幕(下幕)(縄隠し)>
 鉾の左右側面の胴懸の下部にある
 縄絡みや、辻回しの時に車輪に敷く竹ささらを巡行中に隠すように覆われる
 かつては、麻の紺地と濃黄地の太い縦縞に、八坂神社の神紋である唐花紋(帽額紋)(木瓜紋)を白く染め抜いたものだった
 1930年(皇紀2590)昭和5年
 新調され、麻地の鯨幕(黒、白の縦縞)に、黒地は唐花紋を白く染め抜き、白地は巴紋を黒く染め抜いている





【函谷鉾の構造】

 重量:12トン
 高さ:地上から屋根まで約8m、地上から鉾頭まで約24m
 車輪:直径約2m
 鉾屋根:長さ約3.5m、巾約4.5m
 石持:長さ約6m
 床面積:4畳半〜6畳

 綱方 :鉾の巡行で綱を曳く役:30人〜40人
 音頭取:車の操作の上に立つ指揮者:2人(辻を曲る時は、4人)
 屋根方:鉾の屋上で真木の動揺を加減し電線等の障害を調整する役:4人

【函谷鉾の祇園囃子】

 「コンチキチン」の祇園囃子は、リズムを刻む鉦・メロディーを奏でる笛・テンポを司る太鼓の三楽器で構成される

 函谷鉾の囃子は、重厚で、スピーディなリズム感で華やかさと明るさがあるといわれる

 <出鉾囃子>
 四条河原町の「辻回し」までの優雅な雅楽の趣きの囃子
 函谷鉾では、「出(で)」と称される(他鉾では「渡り」「行きし」)

 「地囃子(曳き出)」「出わか」「出函谷」「出鶴」「出葉津美」「小松」「神楽」「唐子」「白山」

 鉾が進発するときには、曳き出しの「地囃子」で出発・再出発する
 町内出発時に「出わか」、東洞院から高倉で「出鶴」、くじ改め四条通堺町で「出函谷」、堺町から寺町までは「出わか」、
八坂神社御旅所では「出函谷」が囃される
 四条河原町へ進入する前からは、「小松」−「神楽」−「唐子」−「白山」−「戻り囃子(地囃子)」と、一連の繋がった曲が囃されるが、
囃子の短縮はできないので、長年の経験で、「小松」に入る微妙タイミングが図られている

 「辻回し」のときには、八坂神社に奉納する「神楽」「唐子」が囃され、「戻り囃子」の「地囃子」への繋ぎの曲「白山」で、
少しテンポが上がり、軽快な「地囃子」に入るときには、鉾は河原町通に正対して北を向いている

 <戻り囃子>
 河原町通で北へ向きを変えてからの、2分の2拍子の四小節のリズムの軽快な「コンチキチン」の囃子
 1曲数十秒から三分間ほどで、多くは2曲ワンセットで、前の曲を一回か数回繰り返して後の曲へ移る

 「地囃子(渡り)」「地囃子(筑紫)」「松−流し」「常目−萬歳」「巴と一二三(筑紫)」「一二三(渡り)」「若葉と小横」「虎と小横」
「函谷−美登里」「榊−初音」「鶴−朝日」「末−神楽」「龍と立横」「竹−流し」「亀−四季と横」「翁と霞」「梅と一二三」
「千鳥−流し」「若」「納め囃子(日和神楽)」

 「辻回し」の間に、悠長な「出鉾囃子」から、軽快な「戻り囃子」に移り、
「地囃子」からすぐ、落ち着いた感じの「松」に入り、一回しで、鉦が「チキチン」を刻み続ける「流し」に入る

 囃子を中断するときは、「若」を一回しして笛の高音一笛で囃子が止められる
 再出発のときは、「地囃子」か「一二三」が囃される

 最後の「辻回し(四条新町)」から鉾宿(ほこやど)までは、鉦が単調なリズムを刻み、笛方がいくつかのメロディをアドリブで奏で、
太鼓方はそのメロディに合わせてアドリブで太鼓を打つ
 町会所に戻ると、「納め囃子」を数回、徐々に速く囃されて終える

 <囃子始め>
 7月1日の吉符入り、午後4時過ぎ
 約1時間、「出」から「戻り囃子」まで、その年の祭の無事を祈願して囃される

 <二階囃子>
 2日から8日まで、午後7時から9時過ぎまで行われる囃子の練習

 <鉾囃子>
 12日の夜から駒形提燈に灯が入り、鉾上での囃子が奏でられる

 <日和神楽
 16日の宵山22時ごろ、最後の鉾囃子が終り、駒形提燈が消され、囃子方の手締めが行われ、
 鉦・太鼓が鉾から下ろされ、木製の組立屋台に備え付け、囃子を奏でながら四条通八坂神社御旅所へ向かう
 八坂神社御旅所で、翌日の巡行の無事・晴天が祈願され、お祓いを受け、唐子を奉納演奏される

 2001年(皇紀2661)平成13年より、
 江戸時代までの寄り町である貞安前之町(寺町通四条下ル)・蓮池町(京極町)(寺町通松原上ル)・葛龍屋町(高倉通高辻下ル)・
高辻尻町(室町通高辻下ル)へ立ち寄る旧巡行路のコースで帰町するようになる

 他の鉾の日和神楽行列とすれ違うときには、微妙に違う祇園囃子が重なり合う

 <奉納囃子>
 18日から23日の毎晩19時から21時ごろまで、
 八坂神社御旅所・西御殿の前で祇園囃子が奉納される
 囃子のある12の山鉾が受け持ち、2年に1度、当番日が回ってくる

 <嘉多丸会>
 1966年(皇紀2626)昭和41年
 函谷鉾保存会とともに、囃子方の会「嘉多丸会」が創立される
 函谷鉾では、一度、太鼓・笛の道に入ると、生涯その道に励むこととして、太鼓から笛・笛から太鼓へ移ることは
練習を含めて認められない


【函谷鉾の保存・運営】

 1966年(皇紀2626)昭和41年
 財団法人 函谷鉾保存会が創立される

【函谷鉾へのアクセス】

 市バス 四条烏丸
 地下鉄 四条駅
 阪急電車 烏丸駅

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【京都検定 第1回3級】

【京都検定 第13回3級】

【京都検定 第4回2級】

【京都検定 第12回2級】

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