浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、木津川市加茂町にある寺院
本堂は、平安時代に京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重なもので、
本堂に9体の阿弥陀如来像が安置されることから「九体寺(くたいじ)」とも称される
「浄瑠璃」という名前は、創建当初の本尊 薬師如来がいるという「東方薬師瑠璃光浄土」に由来する
浄瑠璃寺の所在する加茂町は、「当尾の里」と称され、かつては「小田原」とも称された
付近には「当尾の石仏」と称される、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などがが点在している
地理的には、奈良の平城京や東大寺からも近い
12月上旬〜1月下旬は南天の花の名所
秋には紅葉の名所
境内は、東・西・南の三方を山に囲まれており、門のある北にのみ開いている
かつては、本堂、三重塔、楼門、南大門、護摩堂などがあったといわれる
現在は、宝池を挟んで、東岸に三重塔、西岸に本堂(九体阿弥陀堂)が一直線上に建てられており、それぞれの本尊の
薬師如来と阿弥陀如来が、互いに池を挟んで向き合っている
北には、大日如来を祀る潅頂堂がある
まづ三重塔の薬師如来を参拝し、振り返って彼岸の本堂の阿弥陀に来迎を願う
<北大門>
<本堂(国宝)>
9体の阿弥陀像が横一列に東向きに安置されている横に細長い堂
1体づつ柱間に置かれていて、各々その前に一つの扉が付けられている
寄棟造、瓦葺、正面11間(約25.3m)、側面4間(約9.1m)
平安時代後期に建てられた九体阿弥陀堂は、藤原道長の造営した法成寺無量寿院をはじめ、記録に残るだけで
約30棟あったとされるが、現存するものはこの浄瑠璃寺の本堂のみであり貴重なもの
寄棟造りで、内部は天井を張らずに屋根裏の構造をそのまま見せた簡素なデザイン
京都府技師 松室重光により修復が行われている
内陣は、中央一間の天井が高く、切妻造の化粧屋根裏天井で、平安時代の建築様式
堂と仏像との間は、供物壇といわれる段差のある壇により仕切られている
壇には、絵仏具(常仏具)といわれるお供え物が置かれ、これには、仏飯、供花などの絵が描かれている
壇には、魔除けの意味があるという連珠剣頭巴紋が施されている
1107年(皇紀1767)嘉承2年の建立
1207年(皇紀1867)承元元年、檜皮葺が葺き替えられる
1666年(皇紀2326)寛文6年、本堂屋根が檜皮葺から瓦葺に葺き替えられ、向拝が付けられる
1900年(皇紀2560)明治33年、本堂、三重塔の解体修理が行われる
1967年(皇紀2627)昭和42年、本堂、三重塔の屋根吹き替え、梵鐘鋳造、鐘楼、山門、弁天社が修理される
<浄土庭園(国の史跡、国の特別名勝)>
三方を山に囲まれた境内の中心ある大きな宝池(ほうち)(阿字池)を中心とした池泉回遊式浄土庭園
池の西岸に阿弥陀如来を祀る本堂と、池の東岸に薬師如来を祀る三重塔が残り、平安王朝寺院の雰囲気を伝える貴重なもの
薬師如来は、東方浄瑠璃浄土に住み、現世の苦しみを除く仏であり、過去から現世へ送り出し、
来世へ向かう遣送仏(けんそうぶつ)とされる
阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主で、来世の極楽・西方浄土に迎える来迎仏であることから、
このように祀られているといわれる
薬師如来のいる東岸は「此岸(しがん)」(現世)、池をはさんだ西岸は阿弥陀如来のいる「彼岸」であるという
宝池の中央には、中島があり、荒磯の石組があり、北端の立石は二つの本尊を結ぶ線上に置かれている
かつて、池端は本堂の近くにあり、中尊像が池に映し出されていたといわれる
春秋の彼岸中日に、太陽は東の三重塔の薬師如来の白毫(びゃくごう)の背後から昇り、西の本堂の中尊像の蓮弁の
背後に沈むとされる
1150年(皇紀1810)久安6年、興福寺一乗院僧 恵心により、庭園の整備が行われ、池が掘り下げられ石が立てられた
1205年(皇紀1865)元久2年、少納言法眼により、庭園の改修が行われている
1410年(皇紀2070)応永17年、池の修理が行われている
1965年(皇紀2625)昭和40年、庭園が、国の史跡、国の特別名勝に指定される
1976年(皇紀2636)昭和51年、発掘調査が行われ、洲浜、中島の北端に荒磯の遺構が見つかっている
1977年(皇紀2637)昭和52年、庭園が復元される
<三重塔(国宝)>
境内東岸の高台に建てられている
檜皮葺、各層三間、高さ約16m
東方本尊の薬師如来像が西向きに安置されている
心柱は初重天井の上から立てられており、初層に心柱を中心とした四天柱はない
初層内扉に釈迦八相、四方の壁面に平安時代後期作の十六羅漢図(重要文化財)が、
柱には鎌倉時代末期から室町時代にかけての八方天立像が描かれている
天井は、小組格天井の二重折上
1178年(皇紀1838)治承2年に京都の一条大宮から移築されたものといわれるが、不明確
2010年(皇紀2670)平成22年、修復されている
現存する三重塔としては京都府最古のものとされる
<潅頂堂(かんじょうどう)>
境内の北にある
かつては、書院として使われてきたもの
本尊 大日如来像(金剛界)、役行者三尊像が安置されている
1652年(皇紀2312)承応元年の建立、1854年(皇紀2514)安政元年に改修されている
<宝池(ほうち)(阿字池)>
境内の中心にある池
中央には、中島があり、荒磯の石組があり、北端の立石は二つの本尊を結ぶ線上に置かれている
一番左の立石は惣持石、その他の石群は鏡石ともいう
中島には、石橋が架かっている
1976年(皇紀2636)昭和51年に発掘調査が行われ、洲浜、中島の北端に荒磯の遺構が見つかり、復元されている
<弁財天社>
宝池の中島に建っている
<地蔵堂>
2002年(皇紀2662)平成14年の建立
<石燈籠2基(重要文化財)>
本堂前と三重塔前にある般若寺型燈籠
基壇・中台・火袋・笠も六角形、花崗岩製
本堂前は高さ248.5cm、三重塔前は高さ215cm
2つの石燈籠は、池を挟んで対峙しており、向き合う2つの本尊を遮らないように、左右(南北)にずらされて建っている
願主は阿闍梨祐実で、1366年(皇紀2026)正平21年/貞治5年の銘がある
<鐘楼>
1136年(皇紀1796)保延2年、梵鐘が鋳造される
<石手水鉢>
本堂前に置かれている
花崗岩製、高さ約50cmで、十二角形の鉢が饅頭型の台に乗っている
鎌倉時代、「西小田原永仁四年」(1296年(皇紀1956)永仁4年)の銘がある
<馬酔木>
参道に咲く
<石像群>
本堂脇に祀られている
近くの赤田川の改修工事のときに川底から発見されたもの
<石の湯船>
1475年(皇紀2135)文明7年、大湯屋の修理が行われ、石の湯船が造られた
<鎮守跡>
<藪中三尊磨崖仏>
浄瑠璃寺の近く北東にある
1262年(皇紀1922)弘長2年の造立で、当尾の石仏で銘のあるものとしては最も古い
東小田原寺の塔頭西谷浄土院の石仏
願主は僧 浄法ら9人、石大工は橘安縄、小工は平貞末
左から、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩、観世音菩薩(長谷型十一面観音菩薩とも)の三尊が彫られている
舟形光背、花崗岩製、高さ約1.5m
<阿弥陀如来坐像9体(国宝)>
「九品往生思想」に基づき、1つの堂に9体の阿弥陀如来像が安置される
かつては33ヶ寺あったといわれが、唯一現存している
「九品往生(くほんおうじょう)」とは、「観無量寿経」に説かれる思想で、極楽往生への方法には、仏の教えを正しく守る者から
極悪人まで、9つの段階・種類があるという考え
上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生がある
中央に一回り大きな西の本尊 中尊像が祀られ、左右に各4体ずつ安置されている
中尊は、檜材寄木造、漆箔、彫眼、像高は丈六(約224cm)
右手は施無畏印、左手は来迎印を結ぶ
光背は、江戸時代のもので、千仏光背といわれ、千体の仏と、当初の平安時代作の四飛天(奏楽菩薩)が付けられている
台座は蓮華九重座
胎内には、阿弥陀如来摺物と印仏が納められていた
1047年(皇紀1707)永承2年、あるいは、嘉承年間(1106年〜1108年)に作られたといわれる
左右の8体の脇侍仏は、檜材寄木造、漆箔、彫眼、半丈六(139〜145cm)で、阿弥陀定印を結んでいる
8体はほとんど同形であるが、制作年代は異なり、複数の仏師によるもので、作風には微妙な違いが見られる
<四天王立像(国宝)>
本堂奥西脇床上に、憤怒相の持国天立像と増長天立像が祀られている
2像とも像高約169cm、緑青・朱・丹・白土などの彩色と截金により浄瑠璃寺文様が施されている
1108年(皇紀1768)天仁元年頃の作で、当初の彩色文様がよく残っている
四天王のうち広目天は東京国立博物館に、多聞天は京都国立博物館に寄託されている
<薬師如来坐像(重要文化財)>
三重塔に安置されている東の本尊
木造彩色、檜材一木造、割矧ぎ式、漆箔、像高約86.4cm
左手に薬壺を持ち、右手は施無畏印を結んでいる
創建当時の1047年(皇紀1707)永承2年の造立
当初の浄瑠璃寺の本尊で、かつて東小田原寺(随願寺)の本尊であったともいわれる
<吉祥天立像(重要文化財)>
1212年(皇紀1872)建暦2年に、本堂に安置される
一本材を前後に割り剥ぎ、両手・裾に別材が用いられている
像高約89cm
装束は唐風、宝冠、瓔珞衣の縁や装身具に繧繝彩色文様がある
左手に宝珠がのり、右手は与願印を結んでいる
胎内には、仏の姿を摺った摺物(しゅうぶつ)が納められていた
鎌倉時代の作品だが、平安朝風の優美な作風の像
仏教尊像としての威厳と、現実の女性を思わせる官能美が調和している
九体阿弥陀の中尊の向かって左の厨子内に安置され、春・秋・正月の一定期間のみ扉が開かれる秘仏
本像を納める厨子の扉には、梵天・帝釈天・四天王・弁財天を描いた色鮮やかな厨子絵がある
本物の厨子扉は、鎌倉時代の絵画資料として貴重なもので東京藝術大学が所蔵され、模写がおかれている
<不動明王立像および二童子像(重要文化財)>
鎌倉時代の作
かつて、護摩堂の本尊だったといわれる
不動明王立像は、像高約99cm
右脇侍に優しい表情の制多迦童子(せいたかどうじ)、左脇侍に厳しい表情の矜羯羅童子(こんがらどうじ)が祀られている
両脇侍とも像高約51cm
<大日如来坐像(金剛界大日如来像)(重要文化財)>
潅頂堂に祀られている
髻下より上半身は一材、前後に割矧ぎ、脚・腕は寄木、面部は割り玉眼嵌入、像高60.7cm
鎌倉時代初期頃の慶派仏師の作で、運慶や康慶の作ともいわれている
2005年(皇紀2665)平成17年に修復されている
<子安地蔵菩薩立像(重要文化財)>
九体阿弥陀の中尊の向かって右に安置されている
木造、定朝様、胡粉地に彩色されている、平安時代の作
左手に如意宝珠を持ち、右手は与願の印を結んでいる
<延命地蔵菩薩立像(重要文化財)>
左手に如意宝珠を持ち、右手は与願の印を結んでいる、平安時代の作
東京国立博物館に寄託されている
<馬頭観音菩薩立像(重要文化財)>
木造、彩色、像高約106cm
憤怒の形相の四面三眼八臂像で、口に牙をもち、馬口印を結び、六臂に武器を持っている
胎内には、双身毘沙門天立像が納められていた
「怒りの菩薩」「闘う菩薩」とも称されている
1241年(皇紀1901)仁治2年の南都仏師の作
奈良国立博物館に寄託されている
<弁財天像>
潅頂堂に祀られている八臂弁財天像
鎌倉時代の作
1296年(皇紀1956)永仁4年に吉野天河大弁財天社(奈良県天川村)から勧請されたものといわれる
<役行者倚像>
潅頂堂に祀られている室町時代の秘仏
像高約106cm
2000年(皇紀2660)平成12年に修復され、前鬼・後鬼が加わえられている
<十二神将立像戌神(重要文化財)>
東京国立博物館に寄託されている
<地蔵菩薩立像>
地蔵堂に祀られている
宝珠を持ち、与願印を結んでいる
かつては、華厳寺(和歌山)の本尊といわれている室町時代のもの
<開基 義明上人像>
秘仏、玉眼入り、寄木造、像高約50cm
江戸時代の作
<三重塔壁画(重要文化財)>
平安時代の絵画資料として貴重なもの
<浄瑠璃寺流記 袋綴28枚(重要文化財)>
創建以来の歴史が書かれている
1350年(皇紀2010)正平5年/観応元年
僧 長算により子院 釈迦院のものを書き写し、その後の、室町時代の本堂前池、大湯屋の修理記録などが書き加えられている
<浄瑠璃寺縁起>
諸堂が建立された経緯や、阿知山太夫重頼の薬師仏霊験などについて記されている
1625年(皇紀2285)寛永2年、住職 乗秀による
<初法要> 1月1日
<御会式(御影供)> 4月18日
<行者まつり>
6月7日に近い土日曜日
2003年(皇紀2663)平成15年より行われている
<ぎおんさん(弁天供)> 7月14日
<施餓鬼会> 8月20日
<除夜の鐘> 12月31日
<薬師如来像開扉>
正月三ヶ日、彼岸中日、毎月8日の好天時のみ
<吉祥天女像開扉>
1月1日-1月15日、3月21日-5月20日、10月1日-11月30日
<大日如来像開扉(弁財天像)>
1月8日-9日
<役行者三尊像・地蔵菩薩立像開扉>
6月7日に近い土・日曜日
「浄瑠璃寺の春」
著者:堀辰雄
1943年(皇紀2603)昭和18年、戦時中に妻とともに訪れたことなどが記されている
「浄瑠璃寺の秋」
著者:堀口大学
堀辰雄に感化されて戦後の1964年(皇紀2624)昭和39年に訪れて記した随筆
<当尾>
浄瑠璃寺周辺の地域名
かつては「塔尾(とうお)」といわれ、数多くの寺院の塔が尾根の様に建ち並んでいたことからといわれる
奈良に近く、南都仏教の影響を受け、奈良からの高僧などの隠棲地となっていた
境内の周辺の14.18haは、「当尾京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている
<石仏の里>
浄瑠璃寺周辺には、35ヶ所、90以上もの石仏、石造物などが祀られている
鎌倉時代中期から室町時代初期のもの、室町時代後期から桃山時代にかけてのものが多いといわれる
加工し易い花崗岩がよく採取でき、奈良東大寺再興などにも携わった石工が多く住んでいたことからといわれる