三宝院(さんぽういん)は、下醍醐寺にある醍醐寺の塔頭
歴代座主の住坊になり、醍醐寺門跡を輪番で勤めた金剛王院・報恩院・理性院・無量寿院とともに
醍醐五門跡の一つ
応仁の乱の兵火で焼失するが、豊臣秀吉により再建された美しい桃山建築の遺構
庭園は、醍醐の花見のために豊臣秀吉が自らが設計したといわれる名園で、国の特別史跡、特別名勝
唐門と三宝院殿堂(表書院)の2棟が国宝に指定され、他に7棟が重要文化財に指定されている
<唐門(からもん)(国宝)>
表門の東にあり、桜の並木道に南面している平唐門
門跡寺院として勅使を迎える時だけに扉を開いたといわれる勅使門
門全体が黒の漆塗り
中央の2枚の門扉に、大きな五七の桐の紋が浮彫され、
左右の脇間にも同じ大きさの複弁十二葉の菊花紋が浮彫されている
その4つの大きな紋には金箔が施されていた
桃山時代の大胆な意匠の遺構
三間一戸平唐門、檜皮葺
1598年(皇紀2258)慶長3年
豊臣秀吉の醍醐の花見のときに、伏見城から移築されたものといわれる
1599年(皇紀2259)慶長4年
屛中門として、現在の地よりやや北寄りに建立される
1615年(皇紀2275)慶長20年・安永年間(1772年~1781年)頃、2度、移築されている
1898年(皇紀2558)明治31年12月28日 重要文化財に指定される
1954年(皇紀2614)昭和29年3月20日 国宝に指定される
<表書院(おもてしょいん)(国宝)>
三宝院の中央部に南面して、庭園に面して、大玄関と純浄観の間の、葵の間の東に建つ
縁側に勾欄をめぐらし、西南隅には、庭園に張り出すように泉殿がある
桃山時代の書院造の代表的な遺構
西から下段の間(揚舞台の間)・中段の間・上段の間の3室があり、
畳を上げると能舞台になる
上段の間は、二間の床と一間の違棚がある十五畳
上段の間の襖絵は、四季の柳、中段の間は、山野の風景の襖絵で、長谷川等伯一派の筆といわれる
下段の間の襖絵は、石田幽汀の筆の孔雀と蘇鉄が描かれている「蘇鉄に孔雀図」
西面には車寄せ唐破風がある
上段十五畳(床及び棚付)、十八畳、次の間二十七畳、四面入側、泉殿、車寄より成る、
一重、入母屋造、泉殿切妻造、桟瓦葺、西面車寄唐破風造、檜皮葺
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
1954年(皇紀2614)昭和29年3月20日 「三宝院殿堂(表書院)」として国宝に指定される
<三宝院庭園(国の特別史跡、特別名勝)>
表書院から眺めるために作られた庭園
豊臣秀吉自らが「縄張り」を行ったといわれる名庭
東西に長く造られた蓬菜山水の形式
義演准后の死後、茶道の流行とともに茶室が設けられ、庭の一部が回遊できるように池泉回遊式にされた
泉殿・表書院・純浄観・本堂へと続く回廊の見る場所により、石組みや苅込、中島、橋など表情が変わる
泉殿からは、護岸の豪壮な石組みが見える
表書院の正面には、石組みの名手の賢庭による鶴島(西側)と亀島(東側)がある
亀島は、島全体を、樹齢600年以上といわれる姫子松が亀の甲羅のように島全体を覆っている
鶴島は、亀島の西隣にあり、五葉松が立っている
鶴島の左にある石橋は、鶴の首にあたり、鶴が飛び立とうとしている
藤戸石(ふじといし)
三宝院庭園のほぼ中央に置かれている三尊石組の中心となっている長方形の名石
織田信長の築いた二条第に置かれていたものを
豊臣秀吉が、聚楽第(じゅらくだい)に据え、
さらに、豊臣秀吉が、三宝院庭園に持ち込んだもので「天下の名石」と称される
治承・寿永の乱(源平合戦) 藤戸の戦いにおいて、
佐々木盛綱が平氏追討のために備前国の児島に海を渡るために地元の漁夫から聞き出した、
馬でも渡れる浅瀬の目印で、「浮洲岩(うきすいわ)」と称されていた珍しい形の岩
賀茂の三石
池の手前にある
向かって左の石は、賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、
右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表している
三段の滝
三宝院庭園の東南隅の三尊石組の左側に、三段の滝組がある
深山の趣があり、滝山を高くし立石などの作庭がされている
<護摩堂(ごまどう)(弥勒堂(みろくどう))(重要文化財)>
純浄観の東に続いてある
快慶の作の本尊 弥勒菩薩坐像が祀られている本堂
向かって右に弘法大師、左に開祖 理源大師が安置されている
裏には護摩檀がある
桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、向拝一間、桟瓦葺
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<苔庭>
本堂わきにある、苔と白砂だけの酒づくしの庭
<勅使の間・秋草の間・葵の間 1棟(重要文化財)>
3つの部屋に、広縁、車寄、繋の間もある
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
勅使の間(ちょくしのま)
十畳(附書院付)、一重、入母屋造、妻正面、桟瓦葺
「四季花鳥図」の障壁画がある
秋草の間(あきくさのま)
十五畳、一重、入母屋造、妻正面、桟瓦葺
長谷川等伯の筆の「秋草図」がある
葵の間(あおいのま)
二十畳、一重、両下造、桟瓦葺
石田幽汀の筆の「葵祭図」がある
秋草の間と繋の間との間にある
車寄(くるまよせ)
唐破風造、檜皮葺
<純浄観(じゅんじょうかん)(重要文化財)>
表書院の奥の東側にあり、本堂にもつながっている
茅葺の民家風、内部は豪華な書院造
内部は3室で、襖絵は平成になって、浜田泰介の筆による桜・紅葉が描かれている
豊臣秀吉が、ねね、淀殿らと槍山で大観桜宴を催した時に、醍醐寺境内に建てられたものを移築された
桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、茅葺、庇こけら葺
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<宸殿(しんでん)(重要文化財)>
純浄観の北の奥にある
田の字型の間取りをしており、主室の上段之間は、床棚書院、「武者返し」と称される帳台構がある
違い棚は、「醍醐棚」と称され、「天下の三大名棚(修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」)」の一つ
棚板が奥の壁から離れて、1本の柱に支えられ、左右だけが壁についている
「遠州好み」といわれる系統の彫りがほどこされている
上段之間の西側には、武者隠の間がある
桃山時代から江戸時代の武家造の形式
一重、入母屋造、桟瓦葺
上座:十畳、床・棚・附書院付
次の間:十畳
武者隠の間:八畳、床・附書院付
次の間:八畳、十畳、四畳(押入付)、四畳半、三方入側より成る
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<宝篋印塔(ほうきょういんとう)(重要文化財)>
石造宝篋印塔、基壇付
鎌倉時代後期の建立
1956年(皇紀2616)昭和31年6月28日 重要文化財に指定される
<玄関(重要文化財)>
門を入って正面の建物
桁行11.8m、梁間16.9m、一重、切妻造、妻入、本瓦葺
車寄:桁行4.8m、梁間5.8m、一重、唐破風造、檜皮葺
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<庫裏(くり)(重要文化財)>
桁行21.7m、梁間13.8m、一重、入母屋造、桟瓦葺
1958年(皇紀2618)昭和33年の建立
1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
<茶室 松月亭>
奥宸殿の東北についている茶室
江戸時代末期の創建
四畳半、東に丸窓があり、
入母屋造、南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦
<茶室 枕流亭(ちんりゅうてい)>
三宝院庭園の南東隅にある茶室
三畳の本席と、二畳台目と、二畳の小間がある
伏見城から移築した豊臣秀吉好み
<枯山水庭園>
本堂と茶室 枕流亭との間にある庭
<枝垂桜>
玄関前
高さ約13m、枝張り15mほどの名木
推定樹齢100年
<土牛の桜>
日本画家 奥村土牛(おくむらとぎゅう)が描いた桜の名木
推定樹齢150年
<弥勒菩薩坐像(重要文化財)>
鎌倉時代の仏師 快慶の代表作
1192年(皇紀1852)建久3年の銘がある
頭に宝冠があり、右手を上にして、禅定印を結び五輪塔を持っている