船岡山(ふなおかやま)は、京都の北郊、紫野(船岡山から大徳寺の西南一帯)に横たわる一丘陵
山頂からは、西陣や北山方面が一望できる景勝の地
山頂付近東側には、織田信長を祀る建勲神社、山頂付近西側には、船岡山公園がある
平安京遷都にあたり、四神相応が占われ、船岡山が北方の守護神「玄武」とされ、平安京の北の基点となる
<建勲神社>
祭神:織田信長、織田信忠
山頂付近東側にある
<船岡山公園>
山頂付近西側には、小さなグランド、小さな音楽公会堂などもある
<石標「史跡 船岡山」>
南参道の中腹にある
<石碑「応仁永正戦跡」>
船岡山公園側の中腹にある
<塹壕跡>
中腹に、かつての山城の塹壕跡の300mほどの空堀が残っている
<磐座(いわくら)>
山頂に、かつての祭祀の場で、神さんが降臨する岩が残っている
<三等三角点>
山頂にある
<「枕草子」231段>
清少納言は、「丘は船岡、片岡、鞆岡」と讃えた
<元輔家集>
清原元輔は「船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ」と歌った
<「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」>
「舟岡のともべに立てる白雲の立分かるるも哀とぞ思ふ」
<「今昔物語」>
邪気を祓うために、正月初子の日に野山に出て、小松や若菜を摘む「子の日の宴」という風習が行われていた
円融天皇が譲位の後、船岡山の麓で、子の日の遊びをされたことが記されており、
船岡の北面の小松が所々に群生する中に、遣水をやり、石を立てて砂を敷き、唐錦の平張りを立て、
簾をかけて遊宴されたとある
<「徒然草」137段>
「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と葬送地として描かれている
<「興津弥五右衛門の遺書」>
森鴎外の小説
主人公の興津弥五右衛門は、戦国時代・江戸時代前期の武将 細川忠興の重臣で、長崎に遣わされ、
舶来した香木の伽羅を手に入れるように命じられる
が、同じく香木を調達に来ていた仙台藩 伊達政宗の家臣と争いとなり、相手を討ってしまう
五右衛門は、細川忠興に許されるが、忠興の三周忌を待って、船岡山の麓で後を追い殉死した
<名前の由来>
かつて山の東と南は断崖で、東麓には大池があり、山の東端が地中に突き出ていて、海に突き出した船先と見えたことから
「船岡山」と名付けられたといわれる
この池は、淳和天皇の離宮紫野院(雲林院)に取り入れられ、後には、梶井宮御所の苑池にもなった
<聖徳太子>
「日要集覧」によると、
飛鳥時代に聖徳太子は、船岡山が後に皇城の地になると予言したといわれる
<玄武>
平安京遷都にあたり、四神相応が占われ、船岡山が北方の守護神「玄武」とされ、平安京の北の基点となる
「大地の生気がほとばしり出る地 玄武の小山」とされ、船岡山の真南に大極殿が置かれ、
そこから南に向かって朱雀大路が造られた
<御霊会>
「日本紀略」によると、
994年(皇紀1654)正暦5年
疫病が流行し、疫病退散のための御霊会が行われ、木工寮(もくよう)修理職(しゆりしき)の作った神輿二基に
素戔嗚尊の神霊をこめて、船岡山に安置された
都の人々は船岡山に登り、傘に風流を施して、囃しに併せて踊ったといわれる
その後、人々の人形(ひとがた)を乗せた神輿が、難波江の海に流されたといわれる
これが、紫野御霊会、今宮祭、出雲路御霊堂などの由来とされる
<子の日の宴>
古代中国においては、正月初子の日に岡にのぼって四方を望むと、陰陽の静気を得、憂いを除くといわれ、
また、年の初めに松の実をたペると邪気を祓うとされていた
この風習が日本にも伝わり、平安時代には、正月初子の日に野山に出て、小松や若菜を摘む宴遊が行われていた
<七野(洛北七野)>
平安時代
景勝の地として王朝人の「禁野(しめの)」として遊宴・遊猟なども行われた
「七野」の一つとされ、菜の花、山菜の名所でもあった
<船岡山城>
船岡山は、軍事的要衝として、度々戦場ともなった
応仁の乱では、西軍の山名宗全方の軍事拠点の一つとなり、城が築かれた
<天正寺>
豊臣秀吉は、2体の織田信長の木像を造らせ、一体を焼きその灰を、新しく建立した大徳寺総見院に埋め菩提寺とした
船岡山と大徳寺をつなぐ長廊を造り、船岡山東麓に「天正寺」と称するもう一つの菩提寺を建立し、
そこにもう一体の信長木像を安置する予定だった
1584年(皇紀2244)天正12年末
正親町天皇から、元号寺院として「天正寺」の寺号を得て、大徳寺の古渓宗陳を開山とする予定であった
だが、石田三成により、計画が頓挫し、古渓宗陳は秀吉により博多に配流された
もう一体の信長木像は、現在、総見院に安置されている
<原生林>
船岡山の樹々は種類が多く、帰化植物がほとんど入り込んでいない貴重な森林となっている
<堀川>
堀川は、船岡山東麓を源流にして、ほぼ京都の中央部を南北に貫流する川