大報恩寺(だいほうおんじ)は、千本通を今出川から上ったところにある寺院
「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)」と称される寺院
応仁の乱の戦火の中で残った京都市街地では最も古い建物が残る
吉田兼好の「徒然草」にも登場する
おかめ伝説に伴い建築関係者、特に大工職の参詣も多い
南の門前町は歴史の古い市街地として上京北野界わい景観整備地区に指定されている
大報恩寺は、街の中にあり、一般の民家に囲まれて建っている
境内入り口に「千本釈迦堂」と彫られた石柱が立てられており、参道が山門まで続く
山門をくぐり正面に本堂(千本釈迦堂)が建つ
<本堂(千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう))(国宝)>
(附指定 厨子1基・旧棟木3本・棟札3枚)
創建当時のままの純和風の寝殿造
応仁の乱やたびたびの大火からも奇跡的に焼失を免れ、京都市街地に現存する最古の木造建築
本尊の秘仏 釈迦如来像(重要文化財)が安置されている
内陣と外陣とを区切っている隔壁は、鎌倉時代初期の遺構といわれ、
柱には、応仁の乱の時の刀や槍の傷跡が残る
内部には中陣の天井周りの七宝つなぎなどの装飾があり、板壁仏画なども残る
大柱の上部に升型の受けがあり、大工棟梁が誤って切ってしまい、妻おかめのアイデアで、足りない分を
升型の受けを作る事で解決したものといわれる
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
1227年(皇紀1887)安貞元年
建立のときの棟木の墨書銘が残されている
1290年(皇紀1950)正応3年
檜皮葺き替えが行われる
永享年間(1429年~1441年)・文明年間(1469年~1487年)・延徳年間(1489年~1492年)・
1520年(皇紀2180)永正17年・1589年(皇紀2249)天正17年に、修理が行われている
1669年(皇紀2329)寛文9年
末寺 経王堂の廃材を用いて小屋組を改め本瓦葺とするなど、各所で大変更が行われる
1745年(皇紀2405)延享2年 修理が行われる
1954年(皇紀2614)昭和29年
小屋組を戻し、本瓦葺から檜皮葺きに戻し、各部が復原される
1897年(皇紀2557)明治30年 重要文化財に指定される
1952年(皇紀2612)昭和27年3月29日 国宝に指定される
<おかめ塚>
本堂の前、東側の大きな宝篋印塔
本堂を建立した大工棟梁 長井飛騨守 高次の妻 阿亀(おかめ)の内助の功をしのぶ遺跡
本堂の造営のための貴重な柱の寸法を誤って切ってしまい途方に暮れていた高次を見た妻が、
一計を案じ見事に本堂を落成させることができた
しかし、上棟式の前日に妻は「女の入れ知恵があったと世間にばれたら夫の恥」と自殺してしまった
高次は、妻の心情にうたれ、上棟式に御幣におかめの面を飾り冥福を祈ったという故事に由来する
<おかめ銅像>
おかめ塚の左側に建つ満面の笑みのブロンズ像
1979年(皇紀2639)昭和54年
おかめを慕う信者らにより建てられる
銅像の原型の「おかめ人形」が本堂の東隅に安置されている
<北野経王堂>
山門から本堂までの参道の左側に建つ
1401年(皇紀2061)応永8年
足利義満が、明徳の乱で敗戦死した山名氏清や兵士を弔うため「北野経王堂願成就寺」を
内野(北野天満宮門前)に建てたといわれる
明治維新
神仏分離令によって破却され、大報恩寺に解体縮小して移築される
<霊宝館>
本堂の西側に建つ
<稲荷大明神>
<弘法大師堂>
<不動明王堂>
<ぼけ封じ観音菩薩像>
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第二番札所
<布袋尊>
福徳長寿・富貴繁栄・商売繁昌・家運隆盛のご利益
<御衣黄桜(ぎょうこうざくら)>
花の色が、淡緑から少し濃度を増して緑色になる
<黄桜(ク金の桜)>
<菩提樹>
国宝に7躯(六観音菩薩像・地蔵菩薩立像)、その他7件が重要文化財に指定されている
仏像・彫刻
<木造 六観音菩薩像(ろくかんのんぼさつぞう)・木造 地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう)7躯(国宝)>
聖観音菩薩・千手観音菩薩・十一面観音菩薩・馬頭観音菩薩・准胝観音菩薩・如意輪観音菩薩の6躯と
地蔵菩薩立像の7躯
六観音は、生前の行いによって死後に輪廻転生する地獄・餓鬼・畜生など6つの世界(六道)から救うといわれる
平安時代後期から鎌倉時代に多く造られたが、唯一6体が残る貴重なもの
等身大、玉眼入り、宋風の複雑な衣文、着色せずにカヤの木の質感を生かす素木の像
如意輪観音菩薩は、唯一の坐像で、像高95.5cm
最も高い十一面観音菩薩の立像の像高181.8cm
北野経王堂に祀られていたものといわれる
1224年(皇紀1884)貞応3年
准胝観音菩薩の背面内部に、仏師 肥後別当 定慶(じょうけい)の名前と「貞応三」と墨書されている
1956年(皇紀2616)昭和31年6月28日 重要文化財に指定される
2024年(皇紀2684)令和6年8月27日 国宝に指定される
附指定:六観音像内納入経
・朱書法華経普門品 1巻(聖観音分)
・朱書消伏毒害陀羅尼経 1巻(聖観音分)
・朱書千手陀羅尼経 1巻(千手観音分)
・朱書馬頭念誦儀軌 2巻(馬頭観音分)
(下巻に貞応三年、大檀那藤原以久、女大施主藤氏、六観音造立納経、執筆明増の奥書がある)
・朱書十一面神呪経 1巻(十一面観音分)
・朱書准胝陀羅尼経1巻(准胝観音分)
・朱書如意心陀羅尼呪経1巻(如意輪観音分)
(貞応三年書写、願主肥後前司藤原以久、女大施主藤氏、執筆明増の奥書がある)
<木造 釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)1躯(重要文化財)>
秘仏の本尊の釈迦如来
創建当時の鎌倉時代の作
仏師 快慶の弟子である行快の作
像内に「巧匠法眼行快」の銘がある
1907年(皇紀2567)明治40年5月27日 重要文化財に指定される
附指定:木造天蓋 1面
<木造 千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)1躯(重要文化財)>
千手観音菩薩立像
像高1.76m、一木彫成の彩色像
平安時代の創建以前の古像であり、伝来は不詳
菅原道真の自刻の像ともいわれる
霊宝館に安置されている
1907年(皇紀2567)明治40年5月27日 重要文化財に指定される
<木造 傅大士及二童子像(ふだいし にどうじぞう)3躯(重要文化財)>
北野経王堂輪蔵に安置されていたもの
中尊は傅大士(傅翕(ふきゅう)、左童子は普建(ふけん)、右童子は普成の3躯
1391年(皇紀2051)元中8年/明徳2年
山名氏清の乱後、山名氏追善のため足利義満が北野で万部経会を始る
1401年(皇紀2061)応永8年
万部経会が恒例となり、経王堂が建立される
1412年(皇紀2072)応永19年
経王堂の書写の一切経が納められる
1418年(皇紀2078)応永25年の造立
左 童子の像内に仏師 院隆(いんりゅう)の銘がある
右 童子の像内に応永二十五年三月、仏師 院隆の銘がある
2001年(皇紀2661)平成13年
修理のときに、二童子の像内から造像銘記が見つかり、造立年度などが確認される
2004年(皇紀2664)平成16年6月8日 附指定から単独で重要文化財に指定される
<木造 十大弟子立像 10躯(重要文化財)>
釈迦に従う十人の弟子の像
像高約90.8cm、玉眼入りの彩色像
1218年(皇紀1878)建保6年
目連尊者の右足や、優婆離像の像内に「巧匠法眼快慶」の墨書銘がある
快慶の作といわれる
霊宝館に安置されている
1907年(皇紀2567)明治40年5月27日 重要文化財に指定される
附指定:紙本墨書般若心経 1巻(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本血書心経、陀羅尼、唯識三十頌等 1巻(阿難陀像々内納入)
(承久二年八月実尊の奥書がる)
附指定:紙本墨書阿弥陀根本真言、種子等 1巻(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本墨書諸真言集 1冊(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本墨書大威徳等道場観 1巻(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本墨書法華経和讃 1巻(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本墨書聖徳太子未来記等1巻(阿難陀像々内納入)
附指定:紙本墨書尊念修善勧進願文1巻(阿難陀像々内納入)
(建保六年、同七年願主尊念の記がある)
附指定:紙本阿弥陀経巻数摺札(217枚)1帖(阿難陀像々内納入)
<銅造 誕生釈迦仏立像 1躯(重要文化財)>
鎌倉時代の作
1907年(皇紀2567)明治40年5月27日 重要文化財に指定される
工芸品
<鼉太鼓縁(だだいこぶち)1対(重要文化財)>
霊宝館にある高さ7mほどの大きな一対の太鼓縁
だ太鼓の現存する数点のうちの一つ
室町時代
足利義満が造立した北野経王堂のものといわれる
1978年(皇紀2638)昭和53年 重要文化財に指定される
書跡・典籍
<北野経王堂一切経(きたのきょうおうどういっさいきょう)5,048帖(重要文化財)>
1412年(皇紀2072)応永19年3月17日から8月15日
僧 覚蔵坊増範が発願して勧進僧となり、経王堂において、25か国、200人ほどの僧俗が参加して5か月の短期間で書写された勧進一切経
当初の書写経は4,816帖
室町時代後期の補写経82帖
江戸時代の補写経150帖
北野一切経会や謡曲「輪蔵」で、洛中の人々に親しまれた一切経
1981年(皇紀2641)昭和56年6月9日 重要文化財に指定される
附指定:漆塗経箱 550函
附指定:木造傅大士及二童子像 3躯(後に個別で重要文化財に指定されている)
附指定:経王堂覚蔵坊関係文書(9通)1巻
<おかめ福節分会>
2月節分
お多福招来を願う
<千本釈迦念仏・遺教経会>
3月22日
釈迦の「遺教経」を千本式の唱え方で奉誦され、僧侶の声明が静かに流れる
文永年間(1264年〜1275年)
二世の如輪により始められる
吉田兼好の「徒然草」にも記録がある
<花供養> 5月
<陶器市>
7月9日〜12日
全国の陶磁器業者が境内に露店を開き、陶器市が行われる
<陶器供養会>
7月10日
磁器の原石などが本堂に供えられ、陶磁器への感謝と、業界の発展を祈願する法要が行われる
<精霊迎えと六道まいり>
8月8日〜12日
お精霊迎えの「迎え鐘」が撞かれる
葬送の地「蓮台野」に使者を葬る時に撞いたという故事にちなむ
<大根焚き>
12月7日〜8日
成道会法要(じょうどうえほうよう)
釈迦が悟りを開いた日を記念して行われる厄除けの大根供養
集められた丸い大根を輪切りにした切口に梵字を記して無病息災を祈願し、大鍋で煮込み参拝者にふるまわれる
中風除け、諸病除けのご利益がある
諸堂を建築する際に、木材不足で進まず、摂津の有力な材木商からの寄進で建設にいたったが、
本堂を建立した大工棟梁 長井飛騨守 高次が、貴重な柱の寸法を誤って切ってしまい途方に暮れることになる
そこで、高次の妻おかめが一計を案じ、見事に本堂を落成させることができた
しかし、上棟式の前日に妻は「女の入れ知恵があったと世間にばれたら夫の恥」と自殺してしまった
高次は、妻の心情にうたれ、上棟式に、扇御幣におかめの面を飾り冥福を祈ったという
本堂の大柱の上部に升型の受けが、足りない分を補ったものといわれる
その後、度重なる戦火にも本堂だけは奇跡的に残ったことなどから、厄除・招福のおかめ信仰となる
大工の信仰を得、今日、上棟式にお多福の面を着けた御幣が飾られる由来となっている