後水尾天皇(ごみずのおてんのう)(GoMizunooTennou)

後水尾天皇:第108代天皇

生年:1596年(皇紀2256)慶長元年6月4日
即位:1611年(皇紀2271)慶長16年3月27日
譲位:1629年(皇紀2289)寛永6年11月8日
崩御:1680年(皇紀2340)延宝8年8月19日

諱:政仁(ことひと)

後陽成天皇の第三皇子
母親:関白太政大臣 近衛前久の娘、関白太政大臣 豊臣秀吉の養女、後陽成女御の中和門院 藤原前子

先代:後陽成天皇
次代:明正天皇

中宮:徳川和子(東福門院)

第二皇女:興子内親王(明正天皇)
第四皇子:紹仁親王(後光明天皇)
第八皇子:良仁親王(後西天皇
第十六皇子:識仁親王(霊元天皇)

陵墓:月輪陵(泉涌寺)(京都市東山区

 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、江戸時代初期の天皇で、
 江戸幕府の朝廷を圧迫する政策に反発して、突然、譲位し、4代の天皇の間、院政を行った

 修学院離宮を自ら造営し、学問・詩歌・茶道・華道などに通じ、当時の文化の中心ともなる

【後水尾天皇の歴史・経歴】


【後水尾天皇の離宮】

 <修学院離宮
 1655年(皇紀2315)明暦元年
 後水尾上皇は、第一皇女 梅宮(円照寺尼宮)が修学院村に営む草庵を訪れたとき、
その草庵に近い後水尾上皇の御茶屋「隣雲亭(りんうんてい)」に山荘の造営を開始する
 1659年(皇紀2319)万治2年
 ほぼ完成を迎える

 後水尾上皇は、女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を訪れて造営の指図を自ら行ったといわれる

 1664年(皇紀2324)寛文4年
 「修学院焼」と称される御庭焼(おにわやき)の窯開きが行われる
 この窯で、後水尾上皇の好みの作品を焼かせたといわれる

【後水尾天皇の御陵】

 <御陵>
 泉涌寺境内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られる

 <後水尾天皇髪歯塚>
 相国寺境内
 後水尾天皇の毛髪や歯を納められている塚が現存する

 <清浄華院
 後陽成天皇、後水尾天皇、孝明天皇等の皇子・皇女の御陵墓、各宮家の墓がある
 宮内庁が所管してる

【ゆかりの地】

 <大原野神社
 後水尾天皇が、応仁の乱で荒廃した社殿を再建された

 <二条城
 1626年(皇紀2286)寛永3年9月6日から5日間に渡って
 後水尾天皇の二条城への行幸が行われ、その間、舞楽・能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された
 行幸に先立ち、二条城二の丸御殿(国宝)の大改修が行われた

 <円通寺(えんつうじ)
 後水尾上皇が、比叡山の借景を得るために、各所をまわってようやくこの地を探し当てたといわれる、幡枝の離宮跡に建つ

 <常照皇寺
 「御車返しの桜」
 岩倉具視が、御所紫宸殿の「左近の桜」より株分けしたもので、後水尾天皇が名命したといわれる名樹

 <霊鑑寺
 1654年(皇紀2314)承応3年
 後水尾上皇が、円成寺跡に、皇女 多利宮(たりのみや)浄法身院宮宗澄(じょうほっしんいんのみやしゅうちょう)を開基として、
 天台宗の寺院として、鹿ヶ谷の渓流に沿った地に創建する
 後水尾上皇御遺愛の日光椿散椿(ちりつばき)がある

 <金閣寺
 「茶室 夕佳亭
 後水尾上皇のために、鳳林承章が、金森宗和に造らせたといわれる
 「胡蝶侘(こちょうわびすけ)」
 方丈前庭に立つ椿の一種で、後水尾天皇の御手植えといわれる

【その他】

 <立花
 後水尾天皇は、立花好きでもあり、親王や側近の公家達と、たびたび立花御会を催され、
池坊専好を宮中に召し指導を受けたといわれる


 1629年(皇紀2289)寛永6年
 後水尾天皇は、公家・僧侶・町人までを参加させた宮中立花会を催し、立花の普及に一役を担った


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