円山公園(まるやまこうえん)は、東山区の八坂神社・知恩院に隣接してある公園
京都市で最も古い公園地
園内は、池泉回遊式日本庭園になっており、野外音楽堂・坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像などが立ち、料亭や茶店が散在する
祇園枝垂桜など桜の名所でもあり、藤、あやめ、紅葉が美しい公園
<円山公園庭園>
滝の水は、地下水から引かれており、ひょうたん池に注いでいる
長方形と円形の石を組み合わせた石橋がある
造園家 小川治兵衛により、中央に池を配した回遊式日本庭園に造り変えられる
かつては、琵琶湖疏水の水が引かれていた
<桜の名所>
円山公園内に約1,000本の桜が咲き誇る
歌人 与謝野晶子は 「清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵あふ人みな美しき」と詠んだ
画家 東山魁夷の「花明り」
画家 横山大観の六曲一双屏風「夜桜」などに描かれている
<祇園枝垂桜>
名桜とされるイトザクラ
現在は2代目
4月上旬には、祇園枝垂桜の周りに、かがり火がたかれる
「花洛名勝図会(1864年(皇紀2524)元治元年の刊行)」には、「祇園林夜桜」と題して桜の下での雑踏が描かれている
このときには、祇園枝垂桜は記されていない
1873年(皇紀2533)明治6年
伐採されかけたが、京都近代化政策の推進者である医者・実業家の明石博高が買い取り免れた
このことから「五両桜」とも称される
初代は、樹齢200年ほどで枯死した
2代目の祇園枝垂桜は、植藤15代 佐野藤右衛門によって移植された
<時計塔>
ひょうたん池の畔に建つ
1985年(皇紀2645)昭和60年の建立
2014年(皇紀2674)平成26年
初代時計塔が経年劣化により、天神川ライオンズクラブの寄贈によって二代目に建て替えられた
<ラジオ塔>
1932年(皇紀2592)昭和7年
NHK京都放送局開局のときに、ラジオ普及のためにラジオ塔が建てられた
当時は毎朝、ラジオ塔の前でラジオ体操を楽しむ人が多くいたといわれる
戦争中に資材として供出される
1982年(皇紀2642)昭和57年5月20日
京都放送局開局50周年を機会に、音声合成など最新の技術によつて古都にふさわしい姿で修復された
正面に、説明板
反対の面には、ラジオ塔のまわりに集った人々の様子を撮った写真がはめ込まれている
京都室町ライオンズクラブにより
「チャーターナイト CN3周年記念ACT」の石碑も置かれている
<働く少年の像>
半ズボン姿で新聞を抱え、新聞配達をしている少年を、働く若者の象徴としている
1962年(皇紀2622)昭和37年11月3日
彫刻家 朝倉響子さんによる建立
全国の主要都市に同じような像が同時期に10体ほど建てられた
像の横には「1958 響子」の文字も刻まれている
案内板によると
働く少年少女たちに仕事への誇りと責任を、大人たちには彼らへの愛情と理解を呼びかける
人生の大切な時期を自分自身の力で切り開こうとしている彼らを励まし、彼らの健やかな成長を願う
毎年11月3日
「働く少年をたたえる会」の主催で「働く少年の銅像まつり」が行われている
<丸山海道氏・佳子氏夫妻の句碑>
働く少年の像の近くに置かれている
「朱の宮を神は住家として露けし 海道」(手前の横長)
「傘さしてきく花の鐘父おん母おん 佳子」(奥の縦型)
それぞれの裏には「昭和四十九年 葵句会」と彫られている
<歌碑>
祇園小唄の歌曲碑
「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ」
長田幹彦が、祇園のお茶屋「吉うた」で作詞したといわれる
作曲は、作曲家 佐々紅華(さっさこうか)
毎年11月23日
祇園の芸子・舞妓さんが歌碑に花を添え、歌詞を朗読する祇園小唄祭が行われる
<忘れ傘の句碑>
「久佐太郎 忘れ傘また来る謎の春の酔」(太田久佐太郎)
(裏)
「冠句研究ニ殉ジ之ヲ文学的水準ニ昂揚シタル久佐太郎先生ノ偉業ヲ顕揚シ全国同志ト謀リ之ヲ建ツ碑
表ハ京大教授田中周友氏ノ筆ナリ 桜月識」
1963年(皇紀2623)昭和38年3月
冠句研究 文藝塔社により建立
<善導寺型燈籠>
忘れ傘の句碑から東の斜面の中程に置かれている
<瓦斯灯>
ひょうたん池の小径に建っている
1874年(皇紀2534)明治7年頃
京都の街にも瓦斯灯が灯された、日本に現存する初期のもので、最美の貴重なものとされる
イギリス ロンドンで製造され、神戸外人居留地の街灯として使われていたものを実測して復元したもの
1967年(皇紀2627)昭和42年
明治百年記念として、京都橘ライオンズクラブの寄贈
<坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像>
公園の南東寄りに建つ
三条大橋東詰の高山彦九郎、亀山公園の角倉了以と並んで「京都三大銅像」の一つとされる
<夢の石碑>
川沿いの東端あたり
90歳で死去し長楽寺に葬られた寺井玄渓
赤穂藩の御殿医で、大石良雄と一緒に上洛して、圓山の長楽寺の麓に住んで、大石良雄の仇討に参加しようとしたが
老体と医者であるというので止められて、京都に留まった
その後、多くの知人が切腹せられたことを知り、人生は夢であると有為転変極まりなきことを感じ
近くの岩に「夢」の字を彫ったといわれる(田中緑紅叢書忠臣蔵名所による)
<師弟愛の像>
公園北口、知恩院の南門に建つ
「かく大き愛のすがたを いまだ見ず この群像に涙しなかる」(吉井勇)
(師弟愛の像の説明板)
嗚呼、暴にして無情の室戸台風、
くずれ落ちる校舎の下に七人の教え子をかばいながら荒れ狂う天空に必死の加護を祈る女教師の崇高な姿、
腕に胸に膝にすがって師の無限の愛情に恐怖をこらえる幼い児童達の傷々しい姿
死線を越えた師弟純愛のこの群像は、見る人をして胸を打たれ、聞く人をして襟を正さしめ、
ひらすらに冥福を祈り、合掌黙祷を禁じ得ないのであります
かく大き愛の姿をいまだ見ず この群像に涙しながる
吉井勇
(像の裏)
「師弟愛の像」再建に寄せて
昭和九年九月二十一日
この日西日本一帯に猛威をふるった室戸台風は誠におびただしい被害を残したが
今も忘れえぬ悲しみは、京都市及びその周辺において数ヶ校の校舎が倒れ、
その下敷きとなって一六二名の幼い学童の生命が失われ、
又これ等学童を守って遂に四名の教員が殉職したことである
遺族の人々はこの悲しみを永遠に記念するためこの地にいち早く「師弟愛の像」を建設したが
不幸にしてそれは第二次世界戦争の末期に軍需資材として撤去されるに至った
然し、このたび全日本教育父母会議京都府支部を主体とする「師弟愛の像」再建委員会によって
この像が復元完成したことは誠に意義深いものがある
あの悲しみの日を偲び、亡き教員及び学童の冥福をお祈りする
昭和三十五年九月二十一日 京都市長 高山義三
<頼山陽先生墓碑>
円山公園南のねねの道への出口、銀茶寮の隣に建つ
1922年(皇紀2582)大正11年11月1日
大阪の有田ドラッグ商会の創立者 有田音松の建立
頼山陽のお墓は長楽寺にある
<山鉾館>
祇園祭の各山鉾が収められている
<六阿弥>
正阿弥・春阿弥・庭阿弥・連阿弥・也阿弥・左阿弥の6つの料亭などもあり、遊興地ともなっていた
明治時代には、也阿弥ホテルとなっていた
現在は、料亭 左阿弥のみが営まれている
<西行庵>
円山公園の南、芭蕉堂の東隣
平安時代に西行法師が「祭華園院」を営んだ真葛ヶ原の旧蹟
西行堂、母屋、離れ「皆如庵」などが現存している
<芭蕉堂>
円山公園の南、西行堂の西隣
茅葺
松尾芭蕉ゆかりの地
堂内には、蕉門十哲の一人 森川許六が刻んだ松尾芭蕉の小像が安置されている
<京都市円山公園音楽堂>
円山公園内にある野外施設
3010名が収容でき、音楽や、各種の文化事業、慰楽事業、集会等に利用できる施設
1927年(皇紀2587)昭和2年11月の開堂
<長楽館>
「煙草王」と称された明治時代の実業家 村井吉兵衛が円山公園の一角に建てた別荘跡
<ねねの道>
円山公園から高台寺の西側に続く、台所坂の前を南北に走る石畳の道
<産寧坂重要伝統的建造物群保存地区>
円山公園から高台寺下、法観寺、二寧坂、産寧坂に至る範囲
<東山花灯路>
3月上旬
京焼・清水焼、京銘竹、北山杉磨丸太、京石工芸、金属工芸の5種類の露地行灯約2,400基が、
東山地域一帯散策路約4.6kmに設置される
円山公園内でも枝垂桜などのライトアップが行われる
<祇園小唄祭>
毎年11月23日
祇園小唄の歌曲碑
祇園の芸子・舞妓さんが歌碑に花を添え、歌詞が朗読される
<名前の由来>
かつてこの一帯は、祇園社(八坂神社)の境内の一部であり、安養寺、長楽寺、雙林寺などの寺院が建ち並んでいた
一帯は「祇園林」と称されていた
明治維新以降、公園となったとき、慈円山 安養寺の通称「円山」にちなむ
<アニメ「七人のナナ」>
原作・監督 今川泰宏
円山公園が舞台になっている