大覚寺(だいかくじ)は、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院
総門から大覚寺まで約400mものびる直線の参道は、鎌倉時代後期に、後宇多法皇が再興し院政を行っていた頃は、
院家・参議・坊官・諸大夫などの邸宅が立ち並んでいた官庁街でもあった
嵯峨御所跡として、国の史跡に指定されている
夏は百日紅、10月中旬から菊の花の名所、秋は紅葉の名所
<総門跡>
現在の一条通に、勅使門と同規模程度の門 があった
<表門>
木造切妻造本瓦葺、四脚門
屋根には鬼瓦が置かれている
江戸時代初期の建立
<明智門>
表門の横にある
亀山城より移築されたもの
<式台玄関>
木造入母屋造瓦葺
正面に銅板葺きの唐破風があり、妻飾りは木連格子懸魚附き
江戸時代の建立で、東福門院の女御御所 長局の一部といわれる
玄関の部屋は「松の間」と称される
正面北側に広大な2面の壁貼付、西側の襖6面、東側襖4面に金碧画の「松に山鳥図」が描かれている
狩野永徳の筆とされる
<正寝殿(しょうしんでん)(客殿)(重要文化財)>
宸殿の北側にある
桃山時代の書院造の建物
木造入母屋造桧皮葺
御座所がある
12の部屋に分かれ、南北に3列づつ、障壁画にちなんで名称がつけられている
東列は、「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、中央列は、「雪の間」「鷹の間」、西列は「山水の間」「聖人の間」を並べ、
その南と東に狭屋の間がある
主室である「御冠の間」は、後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際に御冠が傍らに置かれていたことにちなむ
帳台構の框(ちょうだいがまえのかまち)は、「嵯峨蒔絵」と称される
墨絵などの障壁画は、狩野山楽、狩野探幽らの作
「狭屋の間(さやのま)」の明り障子の腰板に描かれた「野兎図」は、いろいろなポーズの兎が描かれた愛らしい動物画
<宸殿(しんでん)(重要文化財)>
正寝殿の前方に建つ
木造入母屋造桧皮造、妻飾り・破風板・天井などに装飾が凝らされている
廊下・広縁は全てうぐいす張りとなっている
襖絵は、狩野派の作
中でも、狩野山楽の筆とされる「牡丹図」(重要文化財)と「紅白梅図」(重要文化財)が著名
建物の前には、右近の橘、左近の梅がある
延宝年間(1673〜1681年)
宮中に1619年(皇紀2279)元和5年に建立された東福門院(後水尾天皇中宮)の女院御所の宸殿が下賜され、移築されたもの
寝殿造の面影が見られる
<五大堂(本堂)>
大沢池のほとりにある
現在の大覚寺の本堂で、本尊 五大明王像が安置されている
木造入母屋造瓦葺、正面5間・側面5間、正面には吹き抜けの広縁がある
大沢池に面する東面には、池に張り出すように広いぬれ縁がある
正面中央は双折桟唐戸、両脇各2間は蔀戸となっている
天明年間(1781年〜1789年)の建立
<貴賓館(秩父宮御殿)>
1923年(皇紀2583)大正12年
東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられた秩父宮家の旧邸
1971年(皇紀2631)昭和46年
大覚寺に下賜される
1973年(皇紀2633)昭和48年
移築復元され、貴賓館とされ、竣工式には秩父宮妃殿下が来られる
<勅使門>
木造切妻造銅瓦葺、四脚門、正面および背面に軒唐破風がある
全体は素木造、唐破風の部分のみ漆を塗り、金鍍金の飾り装飾が施されている
嘉永年間(1848年〜1854年)の再建
<明智陣屋>
木造切妻造本瓦葺
明智門と同じく、亀山城の一部といわれる
切妻部分を正面とし、そこに瓦葺唐破風造りの差掛屋根が付けられ玄関となっている
内部は天井を張らず、大寸の丸太で梁組され、西屋根に煙だしが付けられている
<心経殿(勅封心経殿)(登録文化財)>
殿内には、嵯峨天皇・後光厳天皇・後花園天皇・後奈天皇良・正親町天皇・光格天皇の勅封心経が奉安され、
薬師如来立像が安置されている
鉄筋コンクリート造八角堂鋼板葺
正面昇り階段と段上まわりには卍崩しの組子になった高欄がある
内部は、大正天皇即位式用二条離宮(現在の二条城)の第1車寄せの用材が用いられている
1925年(皇紀2585)大正14年
後宇多法皇600年、後亀山天皇500年の御遠忌記念事業として、法隆寺の夢殿を模して建立された
<御影堂(みえどう)(心経前殿)>
心経殿の前殿
木造入母屋造瓦葺
1925年(皇紀2585)大正14年の建立
大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を式典後に賜り、移築したもの
内陣正面は心経殿を拝するため開けてある
内陣左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王などの尊像が安置されている
外陣は、70畳の広さがある
<霊明殿(れいめいでん)>
朱の漆塗り
1928年(皇紀2588)昭和3年
第30代内閣総理大臣 斎藤実が、昭和恐慌の自力更生を願って東京都沼袋に日仏寺を建立する
1958年(皇紀2618)昭和33年
大覚寺第52世 草繋全宜門跡が、日仏寺の本堂をここに移築して霊明殿とした
本尊 阿弥陀如来と、その右側に草繋全宜門跡が祀られている
<庭湖館(ていこかん)>
大沢池の畔りに建てられた休憩所
上段の間には、江戸時代の名僧 慈雲(ぐうん)の大幅掛軸「六大無礙常瑜伽(ろくだいむげじょうゆが)」が掛っており、
「六大の間」と称される
江戸時代中期の建立
1876年(皇紀2536)明治9年
現在の地に移築される
<安井堂>
<庫裏>
<大沢池 附 名古曾滝跡(国の名勝)>
境内の東側にある
周囲約1kmの日本最古の人工の林泉式庭園
観月の名所
離宮 嵯峨院庭園の遺構で、嵯峨天皇が、中国の洞庭湖(どうていこ)を模して築造したものといわれる
天神島・菊ケ島と庭湖石があり、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じているとされる
池の畔りには、茶室望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽の滝跡がある
池の周りの染井吉野、山桜など桜の名所
京の三沢の一つ(大沢池・広沢池・平の沢池)
庭湖石(ていこせき)
巨勢金岡(こせのかなおか)が立てたといわれる池の中の石
名古曾滝(なこそのたき)
大沢池のほとりにある滝で、離宮 嵯峨院庭園の滝殿庭園内に設けられた遺構
「今昔物語」では百済川成が作庭したものとされる
大納言 藤原公任の小倉百人一首
「滝の音は絶えて久しくなるぬれど 名こそ流れてなお聞こえけれ」に詠まれた名所
1994年(皇紀2654)平成6年から
奈良国立文化財研究所による発掘調査で、遣水(やりみず)が発見され、復元整備されている
中世の遣水
鎌倉時代、後宇多上皇が大覚寺を復興されたとき、枯れていた名古曾滝や遣水の一部が改修整備され、水が流れるようになった
礫(れき)を敷き詰めて、景石や小さな中島が造られなど、中御所内の庭の一部となっていたといわれる
その後、遣水も埋まり、滝の石組がわずかに残るのみとなった
<中御所築地塀跡>
鎌倉時代、後宇多上皇が大覚寺に入寺され院御所を営まれた
発掘調査で、その中御所の南の築地塀の跡と思われる、塀の両側に掘られた溝の遺構が見つかった
堀の基底部が復元され、敷地内の排水を兼ねた溝が造られた
<大沢池畔石仏>
五大堂から大沢池の向こうに、20以上の石仏がある
平安時代後期のもの
<心経宝塔>
大沢池の畔にある
鉄筋コンクリート造多宝塔、朱塗り
1967年(皇紀2627)昭和42年
嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立された
宝塔の基壇内部に如意宝珠を納めた真珠の小塔が安置されている
宝塔内部には秘鍵大師(弘法大師)の尊像が安置されている
<五社明神>
離宮嵯峨院の鎮守社
弘法大師が勅許を得たといわれる
伊勢外宮:豊受大御神
伊勢内宮:天照大御神
八幡宮:応神天皇
春日宮:天津兒屋根命
住吉宮:神功皇后・底筒男命・中筒男命・表筒男命
<五薀(ごうん)>
森羅万象を成り立たせている色・受・想・行・識の5つの要素
色は物質や肉体、受は感覚や知覚、想は概念の構成、行は意志や記憶、識は純粋な認識作用をいう
薀は集まるとの意味
<佛母心院跡>
<筆供養塔>
<嵯峨流華道芸術学院>
<後宇多天皇宸翰御手印遺告(しんかんおんていんゆいごう)(国宝)>
「宸翰」とは、天皇自筆であることをいう
後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている
<後宇多天皇宸翰弘法大師伝(国宝)>
1315年(皇紀1975)正和4年に
真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら書いた弘法大師伝の自筆本
<木造 五大明王像(重要文化財)>
大覚寺の本尊
金剛夜叉明王・降三世明王・不動明王・軍荼利明王・大威徳明王
平安時代後期
円派(えんぱ)の仏師 明円の作
現在は、収蔵庫に安置されている
1975年(皇紀2635)昭和50年
現在、本堂(五大堂)に祀られている五大明王像が、仏師松久朋琳により作られる
<正寝殿 障壁画116面(重要文化財)>
絢爛豪華な桃山時代を代表する作
式台玄関の東側襖4面にある金碧画の「松に山鳥図」は、狩野永徳の筆
正面の壁貼付2面に、老松の巨幹が根を張り、山鳥のつがいがいる
松の左右には楓が1本ずつあり、これが東西両側にも連続し、巨大な老松を主軸とする統一的構図法となっている
宸殿の「牡丹図」「紅白梅図」、正寝殿の「松鷹図」「山水図」は、狩野山楽の筆
正寝殿の「雪景山水図」は、江戸時代の渡辺始興の筆
<板絵著色 大覚寺 障壁画 12面(重要文化財)>
正寝殿の狭屋の間(さやのま)の明り障子の腰板に描かれた「野兎図」
いろいろなポーズの兎が描かれた愛らしい動物画
尾形光琳の作といわれてきたが、渡辺始興の作とされる
<紙本金地着色 四季花鳥図 板戸4面>
正宸殿の狭屋の間(さやのま)の板戸4面
野鳥が岩の上に留まっていたり、牡丹の上を飛ぶ様子が描かれている
渡辺始興の作
<勅封心経>
嵯峨天皇・後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇が写経されたもの
「心経写経の本山」「写経の道場」として心経信仰が盛んに行われていた
<華道祭>
4月15日
嵯峨天皇の命日
嵯峨天皇の遺徳を偲び、御宝前に献華する華道嵯峨御流最大の儀式
<源氏蛍千匹放生会>
6月
嵯峨源氏発祥の地でもあり、蛍火として親しまれ源氏物語にも登場するゲンジボタルが1200匹、放生される
<観月の夕べ>
9月中秋
<嵯峨菊展(さがきくてん)>
11月1日〜30日
大覚寺で栽培されている嵯峨菊が、約600鉢が公開される
嵯峨菊は、江戸時代に品種改良が行われた古典菊の一種で、日本三大菊の一つ
<華道嵯峨御流>
嵯峨天皇に始まるという嵯峨御流の総司所
嵯峨天皇の命日には、華道祭が行われている
<さざれ石、「君が代」発祥の地>
平安時代初期
嵯峨天皇が、嵯峨院(現在の大覚寺)へ行幸の際、千代の古道を通り、途中のさざれ石山(音戸山)山頂を休息の場所とされ、
「さざれ石」と名付けたといわれる
「君が代」の発祥の地ともいわれる
<心経写経の本山>
嵯峨天皇が、疫病退散を願い一字三礼の誠をこめ般若心経を写経され、弘法大師が祈願したところ、
たちまちのうちに疫病が治まったといわれる
後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇なども写経され、「心経写経の本山」「写経の道場」と称される
<千代の古道>
平安時代の貴族が北嵯峨に遊行のときに通った道
都から大覚寺に通じる小道でもあった
<嵐山花灯路>
大覚寺、大沢池のほとりに、愛宕古道街道灯しで使われた巨大堤灯が飾られる
京都嵯峨芸術大学の手作り
<大覚寺古墳群(だいかくじこふんぐん)>
大覚寺の東南の台地にある、古墳時代後期の4つの古墳
その一つの入道塚古墳は、開山の恒寂法親王(淳和天皇の皇子 常貞親王)の陵墓と推定される参考地となっている