御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は、伏見城の西、伏見桃山にある神社
豊臣秀吉が伏見城の守り神とした神社で、桃山時代の遺構を残している
鳥羽・伏見の戦いでは官軍(薩摩藩)の屯所にもなり、石碑が残る
環境庁の名水百選に指定された(1985年昭和60年)清泉「御香水」が湧き出している
伏見の七名水の一つでもある
神功皇后を主祭神とし、日本第一安産守護之大神として広く信仰を受けている
京都16社朱印めぐりの一つ
現存する社殿の多くは、徳川家の寄進によるもの
<本殿(重要文化財)>
1605年(皇紀2265)慶長10年
徳川家康の命により京都所司代 坂倉勝重を普請奉行として再建される
五間社流造、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)
正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股、向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻が施されている
全て極彩色で飾られており、細部の装飾などにも桃山時代の特色が現れている
背面の板面の板壁には、五間全体に柳と梅の絵が描かれている
1990年(皇紀2650)平成2年
約390年ぶりに修復が行われ、極彩色が復元された
<表門(重要文化財)>
1622年(皇紀2282)元和8年
徳川頼房(水戸黄門の父親)が、伏見城の大手門を拝領して寄進した遺構
桃山時代の彫刻がほどこされている
三間一戸、切妻造、本瓦葺、薬医門(やくいもん)
正面は、中国二十四考を彫った蟇股
向かって右から、楊香(ようこう)、敦巨(かっきょ)、唐夫人、孟子の物語の順にならんでいる
楊香(娘)は、猛虎と闘い父親を救う
敦巨は、食べ物にも困り、母親に孝行するために、自分の子供を殺して埋めようとしたが、黄金の釜が出土し、
子供を殺さずに孝行ができた
唐夫人は、祖母に歯が無かったので、自分の乳を飲ませて祖母は養った
孟子は、寒中に病弱の母親が筍を食べたいというので雪の中を歩いて探していると、筍が出てきたという
両妻の板蟇股も桃山時代の建築装飾の代表例
<拝殿(京都府指定文化財)>
1625年(皇紀2285)寛永2年
徳川頼宣の寄進により創建された、豪壮華麗な建物
桁行七間、梁行三間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿
正面の軒唐破風(のきからはふ)には、五三桐の蟇股や大瓶束(たいへいづか)によって左右区切られている彫刻が施されている
向かって右は、龍神伝説の様子を表す「鯉の瀧のぼり」
左は、これに応ずる如く、琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉にまたがって瀧の中ほどまで昇っている様子が彫刻されている
1997年(皇紀2657)平成9年6月
半解体修理が行われ極彩色が復元された
<御香水>
伏見の七名水の一つ「石井の御香水」
この湧水を飲むと、どんな病気をも癒すといわれる
絵馬堂には、御香水の霊験伝説を画題にした「社頭申曳之図」がかかっている
徳川頼宣、徳川頼房、徳川義直は、この水を産湯として使われたといわれる
1985年(皇紀2645)昭和60年1月
環境庁の「名水百選」に認定された
この水が名酒である伏見のお酒を造り出している
<遠州ゆかりの石庭>
1623年(皇紀2283)元和9年
小堀遠州が伏見奉行に命ぜられ奉行所内に、伏見城の礎石などを利用して庭園が作られる
1634年(皇紀2294)寛永11年
上洛した三代将軍 徳川家光を迎えたとき、立派な庭園に感心され、5千石の褒美と、大名に列せられ出世の機会を得た
明治時代以降
陸軍工兵隊や米軍キャンプ場になる
1957年(皇紀2617)昭和32年
戦火に遭った伏見奉行の石材を譲り受けて御香宮神社に移築され、中根金作により新たに作庭される
手水鉢には、「文明九年」(1477年(皇紀2137)文明9年)の銘がある
船形で、戦火で表面が焼け変色した珍しいもの
後水尾上皇が命名された「ところがらの藤」も移植され、由来碑も立っている
<「明治維新 伏見の戦跡」の石碑>
鳥羽・伏見の戦いで官軍(薩摩藩)の屯所となる
<おそらく椿>
江戸幕府 初代伏見町奉行 小堀遠州ゆかりの椿
境内の結婚式場北側の庭にある
樹齢約400年の古木の五色八重散椿
高さ約4mの木に、白やピンク、白い花びらにピンクが混じった花々が八重咲く
豊臣秀吉が伏見城築城のとき、各地から集めた茶花の一つといわれる
小堀遠州が、例祭に参拝したときに「おそらくこれほど見事な椿は他にない」とつぶやいたことで
「おそらく椿」と名付けられたといわれる
<ところがらの藤>
江戸時代前期
後水尾上皇によって命名された
<ソテツ(京都市登録天然記念物)>
西株は雌株、東株は雄株
1605年(皇紀2265)慶長10年頃、本殿建築時に植えられたといわれる
覆いなしで越冬、開花結実する
<若水神事> 1月1日
<七種神事(七草粥)> 1月7日
<御弓始神事>
2月の卯日
大きな字で「鬼」と書いて裏返しにした邪気に見立てた的に矢を射って平穏祈う
江戸時代から続く神事といわれる
大きさは直径約2m、的までは約25m、拝殿の南側に竹を組んで吊るされる
狩衣姿の氏子により的に命中するまで矢が射られる
<例大祭> 4月17日
<茅の輪神事>
7月31日午後3時、午後11時
「備後国風土記」の故事にちなんだ神事
御香宮の本殿と拝殿の中間に直径約3mの茅の輪をかけ、神職がくぐった茅の輪の茅萱(ちがや)を抜き取り持ち帰り、
輪にして門口に吊るしておくと疫病にかからないといわれる
神事は、午後3時と午後11時に行われる
<神能奉納>
9月第3土曜日
能舞台で能、仕舞、狂言が奉納される
<神幸祭>
10月上旬
伏見九郷(ふしみくごう)の総鎮守の祭礼で、「伏見祭」とも称される洛南の大祭
大小の花傘が氏子各町から「アラウンヨイヨイ…」のかけ声で集まる
宵宮祭の翌日、3基の神輿と獅子若や武者行列・稚児行列などが氏子町内を練り歩く
室町時代の風流傘の伝統を今に伝え「花傘祭」とも称される
<御火焚祭> 11月15日
<醸造初神事> 12月中卯日
<鳥羽・伏見の戦い>
1868年(皇紀2528)慶応4年1月2日
旧幕府軍、会津藩・桑名藩の藩兵が、大阪から京都に侵攻する
翌1月3日
朝廷は、薩摩藩・長州藩・土佐藩の諸藩兵を鳥羽・伏見に配置する
伏見では、御香宮神社付近に陣を構え、
鳥羽では、城南宮の参道に薩摩藩の大砲が並べられ、鳥羽・伏見の戦いの勃発の地となる