地図情報
 清凉寺(せいりょうじ)は、「嵯峨の釈迦堂」とも称される嵯峨野にある寺院
 この地は、源融の山荘 棲霞観(せいかかん)があったところ
 「清凉寺式釈迦像」と称される釈迦如来立像があり、胎内には絹製の内臓の模型「五臓六腑」が納められていた
 <釈迦堂(本堂)(京都府指定文化財)>
 「五台山」の額が掛かる仁王門を入り正面
 三国伝来の本尊 釈迦如来立像が安置される
 本堂の東側には、旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像が安置されていた(現在は霊宝館に安置される)
 1701年(皇紀2361)元禄14年
 現在の建物は、徳川五代将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし)・桂昌院(徳川綱吉の母親)・
大阪の豪商 泉屋吉左衛門(後の住友家)らの発起により再建されたもの
 正面の大額「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」は、隠元隆琦の書
 <清凉寺庭園>
 本堂の背後(北側)の庭園
 放生池があり、小島には、忠霊塔、弁天堂が建っている
 紅葉の名所でもある
 <仁王門>
 江戸時代の建立
 <阿弥陀堂>
 通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されている
 896年(皇紀1556)寛平8年
 嵯峨天皇の第12皇子 源融の一周忌に建てられ、「棲霞寺(せいかじ)」が創建されたときの本堂
 1863年(皇紀2523)文久3年
 現在の建物が再建される
 <軒端の梅>
 阿弥陀堂の付近に、和泉式部が好んだといわれる「軒端の梅」が植えられている
 <薬師寺>
 本堂西側に、南向きに建てられている
 <多宝塔>
 仁王門から本堂への参道の西側
 多宝如来が祀られている
 法華経に由来するといわれている
 江戸時代の建立
 <聖徳太子殿>
 仁王門から本堂への参道の西側
 法隆寺夢殿を模したものといわれ、八角堂となっている
 <一切経蔵(輪蔵)>
 狂言堂の正面、参道を挟んだ東側に建っている
 一切経五千四百八巻が納められている
 傅大士(ふだいし)父子像、両脇に普浄・普現の坐像が安置されている
 一切経を搭載した法輪を押して1回転させれば、一切経を読んだのと同じ功徳が得られるといわれる
 <霊宝館(れいほうかん)>
 阿弥陀三尊像・釈迦十大弟子像・四天王立像・文殊菩薩騎獅像・普賢菩薩騎象像・兜跋毘沙門天立像・
「端像造立記(ずいぞうぞうりゅうき)」などの文書、経典のほか絹製の五臓六腑や、
「宋画十六羅漢図」などの寺宝が収蔵展示されている
 <狂言堂>
 嵯峨大念仏狂言が演じられる
 <鐘楼>
 梵鐘には、1484年(皇紀2144)文明16年11月の日付の銘と、足利義政・足利義尚・日野富子などの
寄進者の銘が入っている
 <愛宕権現社>
 火除の神 愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山山頂へ移す時に、ここで祀られた跡地
 明治維新の神仏分離以前は、ここで神事が行われていた
 <弁天堂>
 放生池の小島に建っている
 <忠霊塔>
 放生池の小島に建っている
 地下には、戦争犠牲者の霊を弔うために、一万数千個(一石一字)の写経石や、
沖縄ひめゆりの塔や戦跡で集められた血染めの小石が納められている
 <源融のお墓>
 多宝塔の右奥にあり、宝篋印塔が建っている
 横には、没後千年を記念して建立された「源融碑」が立っている
 右側には、源融の次男 源昇のお墓がある
 <嵯峨天皇宝塔>
 多宝塔の右奥にある
 <法然求道青年像>
 仁王門の横にある
 <豊臣秀頼首塚>
 左側には、「大坂の陣 諸霊供養碑」の石碑が立っている
 1980年(皇紀2640)昭和55年
 大阪城三の丸の跡地で発掘されたもの
 豊臣秀頼が清凉寺の再建に力を入れていたことにより祀られた
 <檀林皇后のお墓>
 <奝然上人のお墓>
 <源昇のお墓>
 <桂昌院遺愛の井戸>
 <中村芳子の歌碑>
 「あでやかに 太夫となりて 我死なん 六十路過ぎにし 霧はかなくも」
 中村芳子(なかむらよしこ)は、初代 中村雁治郎の末娘の女優
 1980年(皇紀2640)昭和55年11月
 夕霧太夫を襲名し、7年間、島原の太夫として活躍する
 1987年(皇紀2647)昭和62年12月3日に死去
 1988年(皇紀2648)昭和63年11月13日に歌碑が建てられる
 <吉井勇の歌碑>
 「いまもなほ なつかしとおもふ 夕霧の 墓にまうでし かへり路の雨」
 <境外北側墓地>
 遊女夕霧太夫・十萬上人などのお墓がある
 国宝に彫刻が3件、絵画が1件が指定されており、
 その他に、彫刻が20躯、絵画が3件、その他美術品が1件が重要文化財に指定されている
 <木造 釈迦如来立像(国宝)>
 本堂に祀られている本尊で、奝然上人が中国 宋から持ち帰った立像
 日本三如来の一つ(平等寺の薬師如来立像・善光寺(長野県)の阿弥陀如来像)
 像高さ162cm
 古代インドの優填王(うてんおう)が、釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという釈迦像を模刻したもの
 張延皎并張延襲の作
 「インド〜中国〜日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と称されている
 この釈迦像の模造が、奈良 西大寺本尊像をはじめ、全国に100体近くあり「清凉寺式釈迦像」と称される
 縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など異国情緒あふれる仏像
 胎内には、造像に係わる資料、経典、文書、銭貨、奝然上人の遺品など多くの「納入品」が納められており、
「生身如来」といわれている
 背板裏に、大宋国台州張延皎并弟延襲雕、反花座表に唐国台州開元寺、僧保寧の刻銘がある
 蓮弁葺軸底には建保六年大仏師法眼快慶修造(1218年(皇紀1878)建保6年)の墨書銘がある
 中国 北宋時代の作品
 985年の張延皎并張延襲の作品で、1218年(皇紀1878)建保6年の修理の銘がある
 附指定:附 旧厨子扉4面
 1901年(皇紀2561)明治34年8月2日 重要文化財に指定される
 1955年(皇紀2615)昭和30年6月22日 国宝に指定される
 2017年(皇紀2677)平成29年9月15日 追加指定されている
 <像内納入品一切(ぞうないのうにゅうひんいっさい)(国宝)>
 釈迦如来立像(国宝)の像内に納められていたもの
 納入品の一つである絹製の内臓の模型「五臓六腑」は、医学史の資料としても貴重なもの
 奝然上人の遺品として、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された
 附指定:包紙(奝然封)一紙・銅製軸首一双・竹製八双残闕1本・表紙題簽1枚
 一つ書:27件
 中国 北宋時代の作品
 985年の作品で、1218年(皇紀1878)建保6年の修理の銘がある
 1955年(皇紀2615)昭和30年6月22日 国宝に指定される
 <木造 阿弥陀如来及両脇侍坐像 3躯(国宝)>
 棲霞寺 阿弥陀堂の本尊だったものといわれている阿弥陀三尊坐像
 中尊の阿弥陀如来坐像は、顔相がひきしまり、肩広く胸が厚いたくましい形状
 嵯峨天皇の皇子 源融が亡くなる前に、自分の顔に似せて作らせたといわれ、「光源氏写し顔」といわれる
 左右の観音菩薩・勢至菩薩は、密教の手印を結ぶ珍しい形
 いづれも平安時代の木造・漆箔・重厚味のある像
 現在は、霊宝館に収蔵されている
 1901年(皇紀2561)明治34年8月2日 重要文化財に指定される
 1991年(皇紀2651)平成3年6月21日 国宝に指定される
 <木造 十大弟子立像(じゅうだいでしりゅうぞう)10躯(重要文化財)>
 平安時代の作
 元は本堂の本尊 釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている
 富楼那像(ふるなぞう)や羅ご羅像(らごらぞう)などがある
 1912年(皇紀2572)明治45年2月8日 重要文化財に指定さる
 <木造 文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)(重要文化財)>
 元は本堂の本尊釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている
 平安時代の作
 1942年(皇紀2602)昭和17年12月22日 重要文化財に指定される
 <木造 木造帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像(たいしゃくてんきぞうぞう)(重要文化財)>
 平安時代の作
 普賢菩薩の騎象像ともいわれる
 元は本堂の本尊 釈迦如来立像の脇に安置されていたが、現在は霊宝館に収蔵されている
 1942年(皇紀2602)昭和17年12月22日 重要文化財に指定される
 <木造 四天王立像 4躯(重要文化財)>
 平安時代の作
 霊宝館に収蔵されている
 1942年(皇紀2602)昭和17年12月22日 重要文化財に指定される
 <木造 地蔵菩薩立像(重要文化財)>
 鎌倉時代の作
 本堂内に安置されている
 1912年(皇紀2572)明治45年2月8日 重要文化財に指定される
 <木造 毘沙門天坐像(びしゃもんてんざぞう)(重要文化財)>
 左脚を踏下げて坐る兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)
 比叡山前唐院様と称されるこの形式の、彫像で唯一の現存する作として貴重なもの
 本来は、地天女に支えられ、二鬼を従えていたとみられる
 像高一尺五寸
 霊宝館に収蔵されている
 平安時代の作
 2009年(皇紀2669)平成21年7月10日 重要文化財に指定される
	
 <木造 毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう)(重要文化財)>
 平安時代の作
 1901年(皇紀2561)明治34年8月2日 重要文化財に指定される
 <木造 如意輪観音坐像(にょいりんかんのん)(重要文化財)>
 六臂の如意輪観音の等身像
 像高105.6cm
 ヒノキとみられる針葉樹材の一材より彫出して腕などを接続している
 高く結い上げた髻(もとどり)や体奥の大きい体型、浅いが翻波式(ほんぱしき)を含む衣文表現は、
平安時代後期のもの
 清凉寺の前身棲霞寺(せいかじ)の遺構である阿弥陀堂に残されたもの
 2025年(皇紀2685)令和7年 重要文化財に指定される
 <絹本著色 十六羅漢像(じゅうろくらかんぞう)16幅(国宝)>
 中国 北宋時代の羅漢像として唯一の遺品
 京都国立博物館、東京国立博物館に8幅ずつ寄託されている
 1955年(皇紀2615)昭和30年2月2日 国宝に指定される
 <紙本著色 釈迦堂縁起(しほんちょしょくしゃかどうえんぎ)6巻(重要文化財)>
 室町時代の狩野元信の筆といわれる
 京都国立博物館に寄託されている
 1515年(皇紀2175)永正12年
 狩野元信の作といわれる
 1899年(皇紀2559)明治32年4月7日 重要文化財に指定される
 <絹本著色 阿弥陀浄土図(あみだじょうどず) 画絹一幅一鋪(重要文化財)>
 縦95.5cm X 横42.9cm
 鎌倉時代の独特の図様構成になっている
 平安時代の恵心僧都 源信の「往生要集」などに記された極楽浄土の様子を事細かに描き込まれている
 金銀なども多用されている
 京都国立博物館に寄託されている
 2018年(皇紀2678)平成30年10月31日 重要文化財に指定される
 <紙本著色 融通念仏縁起 2巻(重要文化財)>
 詞後小松天皇等二十三筆、巻中に応永廿、廿一、廿四、卅年書写の記録がある
 寂済・隆光・光国・永春・行秀・行広の絵師名押紙がある
 室町時代の作
 1897年(皇紀2557)明治30年12月28日 重要文化財に指定される
 <源空、証空自筆消息(げんくうしょうくうじひつしょうそく)(二通)1巻(重要文化財)>
 附指定:熊谷直実自筆誓願状1巻・迎接曼茶羅(正副)2幅・迎接曼茶羅由来1巻
 1965年(皇紀2625)昭和40年5月29日 重要文化財に指定される
 <嵯峨大念仏狂言(重要無形民俗文化財)>
 京都三大念仏狂言の一つ
 狂言面をつけて演じる無言劇
 3月、4月、10月が有名
 狂言堂で演じられる
 <涅槃会>
 3月15日 夜6時30分頃
 <嵯峨お松明式>
 3月15日 夜8時30分頃
 涅槃会法要のあとに行われる
 お釈迦さんを荼毘(だび)(火葬)した時の様子を表現したものだといわれる
 京都三大火祭の一つ
 <御身拭式>
 4月19日
 <夕霧供養>
 11月第2日曜日
 江戸時代初期、近松門左衛門の「夕霧七年忌」のモデルにもなった名妓 夕霧太夫
 音曲、舞踊、茶、花、和歌などあらゆる技芸に通じ、さらにその美貌で人気を集めた島原の遊女
 現役の島原の太夫を招いて、釈迦堂にて法要が営われる
 その後、島原の太夫は、禿(かむろ)を従えて、夕霧太夫の眠る墓地まで道中し、花を供えてお墓参りが行われる
 <生の六道>
 西門近くの薬師寺(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が立っている
 嵯峨釈迦堂の東隣が六道町で、かつてそこに福生寺があり六道の辻があったといわれる
 小野篁の冥土通いの冥土への入口「死の六道」が六道珍皇寺にあり、
 冥土から現世へ戻る出口「生の六道」が福生寺(現在の薬師寺)にあったといわれる
 <能の演目「百万」>
 清涼寺の境内が舞台となっている
 嵯峨大念仏狂言を見るため、お坊さんが稚児を連れて舞台に現れ、わざと下手な念仏を唱える
 我が子と生き別れ狂ってしまった女芸人の百万が、下手さに我慢できなくて現れ、
自分で音頭をとり曲舞を舞う
 稚児は、百万は自分の母親と気づく。。。
 観阿弥原作の猿楽能「嵯峨物狂」を、世阿弥が「百万」に仕立てたものといわれる
 <源氏物語>
 遺構の地 山荘 棲霞観の主人 源融は、源氏物語の主人公 光源氏のモデルとなった
 清凉寺は、源氏物語では、光源氏が大覚寺の南に土地を希望して、
紫の上が源氏四十の賀に合わせ薬師仏供養を行った寺院
 境内の源融のお墓とされる宝篋院塔の隣には、光源氏ゆかりの「恋の木」が立っている
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