金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、岡崎の北東、鹿ヶ谷の西、真如堂の南に隣接している寺院
法然上人が初めて草庵を創建した浄土宗の最初の寺院で、知恩院と並ぶ格式をもつ浄土宗の大本山
浄土宗鎮西派四箇本山の一つ(浄土宗の七大本山の一つ)
幕末維新には、京都市中警護のために、京都守護職 松平容保が率いる会津藩の本陣となる
江戸時代初期
金戒光明寺は、同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改築されている
大軍が一度に入れないよう、南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた
黒谷は小高い岡になっており、自然の要塞として、西は大山崎(天王山)・淀川・大阪城まで見渡せたという
御所まで約2km、粟田口(三条大橋東)(東海道の発着点)まで約1.5kmで、
馬で約5分・人が走って約15分の要衝の地だった
<高麗門(総門)>
高さ約6.8m、切妻屋根、屋根瓦葺
徳川家康が、二条城を造営したとき、黒谷と知恩院が、非常時の城郭になるように城構えに立て替えられた
<三門(国登録有形文化財)>
三間一戸、高さ23m、入母屋造、重層、左右に山廊付、本瓦葺
禅宗寺院における三解脱門の様式で、禅宗以外では、浄土宗の知恩院と金戒光明寺のみ
楼上正面に、後小松天皇宸翰の「浄土真宗最初門」の勅額がかけられている
鏡天井には、幕末の中殿暁園による「蟠竜図」がある
<釈迦三尊像>
楼上に釈迦三尊像(宝冠釈迦如来像・文殊菩薩・普賢菩薩)が祀られている
両脇には「十六羅漢像」の8体が安置されている
伽藍整備に金一万両の寄進した、肥前の横尾宗兵衛夫妻の木像も安置されている
応永年間(1394年~1428年)の建立
応仁の乱で焼失
1860年(皇紀2520)万延元年に再建、落慶法要が行われた
<文殊塔(三重塔)(重要文化財)>
墓地の背後、境内一番東に立つ
三間三重塔婆、本瓦葺
江戸時代初期
1633年(皇紀2293)寛永10年
徳川秀忠の菩提のために、豊永宗如により建立される
「建塔記」が残されている
運慶の作といわれる本尊の文殊菩薩と脇侍が安置されていた
現在、京都市内にある重要文化財の三重塔は、清水寺・子安塔(こやすのとう)・文殊塔の三塔のみ
<本堂 御影堂(みえいどう)(国登録有形文化財)>
「大殿(だいでん)」とも称される
南面、七間七間、単層、入母屋造、本瓦葺、正面に三間向拝、建築面積706m2
内陣正面に、法然上人が75歳の時の御影坐像が安置されている
脇壇には、京都七観音・洛陽三十三所観音巡礼の
吉田寺の旧本尊といわれる千手観音菩薩立像が安置されている
後門に、円覚寺舎利殿に倣った花頭窓がある
1934年(皇紀2594)昭和9年に火災により焼失
1944年(皇紀2604)昭和19年の再建
室町時代の様式の設計
堂内の光線と音響にこだわった昭和時代の模範建築物
防火対策のため鉄筋コンクリート壁、鉄製扉なども付けられ、鉄製ボルトなども使用されている
<阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)>
本尊の阿弥陀如来(のみおさめの如来)が安置されている
1605年(皇紀2265)慶長10年
豊臣秀頼により、方広寺大仏殿建立の余材で再建される
金戒光明寺の中で、最も古い建物
<大方丈(国登録有形文化財)>
南面、書院造、6室の方丈形式、建築面積581m2
13間11間、単層入母屋造、本瓦葺/桟瓦葺
閑院宮載仁親王の筆の扁額「白河禅房」がかけられている
内陣正面に仏壇、手前に仏間、左に上段の間、中断の間がある
久保田金僊筆「虎図」がある「虎の間」、今尾景祥筆「松図」がある「松の間」などがある
1934年(皇紀2594)昭和9年に火災により焼失
1944年(皇紀2604)昭和19年の再建
武田五一の設計
防火対策のため鉄筋コンクリート壁、鉄製扉なども付けられ、鉄製ボルトなども使用されている
<大方丈唐門(国登録有形文化財)>
大方丈の南正面、四半敷の切石積基壇に立つ
木造、四脚門形式、向唐破風造、銅板葺
1936年(皇紀2596)昭和11年の建立
<築地塀(国登録有形文化財)>
大方丈の南庭を区画する
唐門から矩折れで延び、西側は大方丈南西隅に、東側は玄関の南西隅に繋がる
土塀、定規筋5本、本瓦葺、総延長57m
<小方丈(小書院)>
法然上人が住んでいたところといわれる
1934年(皇紀2594)昭和9年に火災により大方丈とともに焼失した
<金戒光明寺庭園>
大方丈・茶室・庫裡の3つの庭地が共存する形で構成されている
2006年(皇紀2666)平成18年
5年後の宗祖 法然上人の800回忌を記念して作庭された
監修は、第73世 坪井俊映
<紫雲の庭>
大方丈東側に面した枯山水庭園
広さ約700m2
白砂と杉苔が敷き詰められ、法然上人の誕生から開宗までの足跡と、金戒光明寺の発展を
石組と松などで表現されている
・美作の国(現在の岡山県)での幼少時代
・延暦寺での修行の時代
・浄土宗を開き、念仏を広めた時代
の3つのエリアで構成されている
法然上人の成長を大小の石で表わされ、
師匠の叡空や、弟子の源智上人と信空、黒谷で法然上人の弟子となった熊谷直実など
縁の深い人物も表現されている
<池泉回遊式庭園>
紫雲の庭の北にある
大池(鎧之池)は、平安時代末期に、武将 熊谷直実が、出家をしたときに鎧を洗ったといわれる
石橋が架けられ、楓などが植栽されている
園路・延段は「御縁の道」と称される
<露地庭>
茶室「紫雲亭」前にある
ツツジの大刈込がある
中根金作の作庭
<茶室「紫雲亭」>
<円光大師法然上人御廟(勢至堂)>
境内東部の上壇の地にある
法然上人の分骨が納められている
第2世 信空が法然上人の遺骨を生涯身に着けて離さなかったといわれ、
没後に、弟子によりこの地に埋葬された
1573年(皇紀2233)天正元年
五輪の塔が建立される
1676年(皇紀2336)延宝4年
堂宇が再建され、中央厨子の下層に五輪の塔、上層に勢至菩薩、脇壇に法然上人涅槃像が祀られている
屋根には、愛嬌ある鬼瓦が載せられている
<経蔵(京都府登録有形文化財)>
方三間、重層、宝形造、本瓦葺
1689年(皇紀2349)元禄2年の建立
<観音堂>
収蔵庫を兼ねている
<玄関(国登録有形文化財)>
大方丈東側にあり、寺務所と隣接する
木造平屋建、妻入入母屋造、正面中央に唐破風造銅板葺の車寄、桟瓦葺/瓦葺
南北に縦長に6室あり、背面に幅広廊下がある
1936年(皇紀2596)昭和11年の建立
<熊谷直実供養塔>
法然上人廟の前にある五輪の塔
熊谷直実(くまがいなおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の平家の武将
治承・寿永の乱(源平合戦)において、15歳の敵将 平敦盛を討ち首を取る
熊谷直実は、殺生の無常から慙愧に堪えず、金戒光明寺の法然上人を訪れ弟子になる
熊谷直実は、方丈裏の池(後の鎧之池)で鎧を洗い、そばの松(後に熊谷直実鎧かけの松)に鎧をかけ、
弓の弦を切り、出家したといわれる
鎧は、庭に埋められ「鎧塚」と称される
熊谷直実は、法力房 蓮生(ほうりきぼうれんせい)と号し、現在の蓮池の畔に蒲生庵(現在の蓮池院)を創建する
<平敦盛供養塔>
法然上人廟の前に立っている
15歳のとき治承・寿永の乱(源平合戦)において、熊谷直実に斬り殺される
<鐘楼(京都府指定有形文化財)>
切妻屋根
破風板の拝の懸魚の鰭には、巻込文様の先に天人が彫られている
1623年(皇紀2283)元和9年の建立
<大池(鎧之池)>
方丈の裏(北側)の池
熊谷直実が、出家をしたときに、鎧を洗ったといわれる
<蓮池(兜之池)>
熊谷直実(蓮生)が、出家をしたときに兜を置いたところといわれる
後に、春日局が、蓮生にちなんで蓮を植えたことから、蓮池となる
<極楽橋>
蓮池にかかる橋
極楽橋を渡って文殊塔へ登っていく
熊谷直実(蓮生)が、兜を置き、弓の弦を切り弓を池にかけた形が、蓮池と極楽橋の形になっているといわれる
<熊谷直実鎧かけの松(京都市指定保存木)>
本堂(御影堂)の右手(東側)にあるクロマツ
武将 熊谷直実が、出家をしたときに、方丈裏の池(後の鎧之池)で鎧を洗い、鎧をかけた松
2013年(皇紀2673)平成25年
2代目の松が枯れる
現在は、3代目の松が生育している
<五劫思惟阿弥陀如来像(ごこうしいあみだにょらいぞう)>
文殊搭へ向かう石段のふもと左手におられる阿弥陀如来
螺髪が多く「アフロ仏像」とも称される
法蔵が、螺髪が伸び放題になるほどの長い時間(五劫)を費やして衆生救済を考え、
48の願をかけ、大願成就し、阿弥陀如来になったといわれる
「劫」は、ヒンドゥー教の神話世界での時間の単位
「一劫」は、一辺40里の大磐岩を、天女が3年に一度舞い降りて、羽衣で撫で岩が擦り切れるまでの途方もない時間という
<清和殿>
1779年(皇紀2439)安永8年の建立
<新清和殿>
1964年(皇紀2624)昭和39年
日彰小学校雨天体操場から移築された
<納骨堂>
旧経堂当寺に納骨されたお骨で造立された「骨仏」と称される阿弥陀如来坐像が安置されている
1689年(皇紀2349)元禄2年の再建
<石碑「洛陽第六番観音霊場」>
<石碑「圓光大師霊場」>
<石碑「清和天皇火葬塚」「後一条天皇陵 陽成天皇陵」>
高麗門付近に立つ
<道標「贈従五位赤松小三郎先生墓所」>
善教院の門前参道に立つ
<南門>
黒谷に大軍が一度に入れないよう、小さな門とされた
<北門>
いづれも本尊は阿弥陀如来
境内南西(三門前の参道を左側)より北に向かって
<浄源院>
境内南西の端(三門前の参道を左側)にある
<善教院>
浄源院の北隣にある
歌舞伎役者「林又一郎」のお墓がある
<光安寺>
善教院の東隣にある
<超覚院>
金戒光明寺の三門をくぐってからの参道の最西端(左側)にある
<西住院>
超覚院の東隣、光安寺の北向いにある
<瑞泉院>
金戒光明寺の三門をくぐってからの参道の西側(左側)の一番手前、北側にある
<長安院>
金戒光明寺の三門をくぐってからの参道の西側(左側)北側の西住院と瑞泉院の間の参道の北奥にある
<永運院>
金戒光明寺の御影堂から西側(左側)への参道の一番奥の角にある
<西翁院>
永運院の奥(西側)に隣接している
茶室 澱看席(重要文化財)
<龍光院>
御影堂の西側の参道を上がった(北へ)西側(左側)にある
<顕岑院>
御影堂の西側の参道を上がった(北へ)西側、龍光院の北隣にある
<栄摂院>
御影堂の西側の参道を上がった(北へ)東側、顕岑院の向かい(東側)にある
名水「黒谷明星水」が湧き出ており「天人影向の井戸」とも称される
<西雲院>
境内の東北端にある
境内に会津藩殉難者墓所がある
<常光院>
三門の前の参道を進み、三門の東側にある
<金光院>
三門の東側、常光院の北隣にある
<蓮池院>
境内の南東、文殊塔に登る手前の蓮池の南東にある
平氏の出身の武将 熊谷直実ゆかりの寺院で「熊谷堂」と称される
<松樹院>
境内の南東、蓮池院の東側、石階段を登ったところにある
<勢至院>
境内の南東、松樹院の奥(東側)、円光大師法然上人御廟の南隣にある
<清和天皇火葬塚>
清和天皇が火葬され、遺骨は水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に埋葬された
<会津藩殉難者墓所(あいづはんじゅんなんしゃぼしょ)>
山上墓地北東にあり、塔頭 西雲院で管理されている
1862年(皇紀2522)文久2年
会津藩藩主 松平容保が、京都守護職に任命されると、
金戒光明寺が本拠地とされ、大方丈と宿坊25ヶ寺に会津藩藩士が分宿した
それ以降、1868年(皇紀2528)慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦いなど、会津藩藩士戦没者352名の墓所となっている
会津松平家が神道であったため、約7割ほどの人々が祖霊として葬られている
墓所の前には、石碑が立っている
毎年6月第2日曜日には、西雲院により、会津松平家の当主を招き会津藩殉難者追悼法要が行われている
<熊谷一族墓所>
塔頭 蓮池院を創建した平氏の出身の武将 熊谷直実一族のお墓がある
熊谷直実自身の墓所は熊谷寺(埼玉県熊谷市)、遺骨は粟生光明寺に納められたといわれる
<春日局墓所>
斎藤利三の娘で、江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母となる
<八橋検校墓所>
江戸時代前期の筝曲の創始者 八橋検校(やつはしけんぎょう)のお墓
八橋検校のお墓への参拝者に、参道の茶店が、琴の形をした菓子を出したことが、
京菓子「八橋」の由来といわれる
<山崎闇斎墓所>
山崎闇斎(やまざきあんさい)は、江戸時代前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家
京都で仏門に入りるが、儒学者 野中兼山(のなかけんざん)に誘われ土佐へ移り、
儒学者 谷時中(たにじちゅ)に師事して儒学を学ぶ
江戸に遊学して、会津藩藩主 保科正之(ほしなまさゆき)らと活発に活動した
その後、帰京し、儒学と神道を合一した垂加神道(すいかしんとう)を唱えた
<山中鹿之助幸盛の五輪塔>
戦国大名 尼子氏の家臣
本姓は源氏で、宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流の家系
<田中吉政墓所>
塔頭の黒谷龍光院西墓地にある
柳川藩32万石の藩主 田中吉政のお墓
2008年(皇紀2668)平成20年3月
没後399年の法要が行われた
<侠客 会津小鉄墓所>
会津墓地西側の西雲院庫裡前にある
本名、上阪仙吉(こうさかせんきち)
会津藩 松平容保が京都守護職在職中は、表の家業を口入れ屋として、新選組の密偵として大活躍をした
会津藩が鳥羽・伏見の戦いで賊軍とされ、戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを、
子分約200名を動員し、迫害も恐れず収容し、近くの寺で荼毘に付し回向供養した
さらに、松平容保の恩義に報いるために、会津墓地を西雲院住職とともに死守し、整備を行ったといわれる
<崇源院の供養塔>
浅井長政の娘で、徳川秀忠正室・徳川家光の母親となる
<徳川忠長の供養塔>
徳川秀忠と崇源院の三男、徳川家光の弟
駿河大納言と称された
茶人 藤村庸軒(ふじむらようけん)のお墓
清富藩初代藩主 宮城豊嗣の実父 宮城頼久のお墓
京都帝国大学初代総長 木下広次のお墓
京都物産館 丸物(現在の近鉄百貨店)の創業者 中林仁一郎のお墓
<吉備観音(重要文化財)>
御影堂須弥壇脇に祀られている
半丈六(2m60cm)の木造千手観音菩薩
一木造、漆箔、衣冠姿
奈良時代後期
753年(皇紀1413)天平勝宝5年
学者 吉備真備(きびのまきび)が、2度目の遣唐使の帰国のとき、
船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、すぐさま難を免れることができたことで、
吉備真備が、唐より持ち帰った栴檀香木で、行基に頼んで刻んでもらった観音菩薩像
吉田中山の吉田寺に祀られていた
聖武天皇が勅願所として定められ、厄除け・道中守護・交通安全・諸願成就の御利益があると信仰されている
宮中で御懐妊があれば、勅使により安産祈願と、肥立開運祈願が行われる「安産守護」の本尊とされていた
平安時代末期
後白河法皇が定めた洛陽三十三所観音巡礼の第六番札所となる
鎌倉時代
京都七観音(行願寺・清和院・吉田寺・清水寺・六波羅蜜寺・六角堂・三十三間堂)の一つとなる
1668年(皇紀2328)寛文8年
吉田寺が廃寺となり、徳川幕府の命で、金戒光明寺へ移された
<阿弥陀如来>
阿弥陀堂の本尊
恵心僧都 源信の最終の作といわれる
阿弥陀如来の腹中に、ノミなど彫刻の使用器具が納められており「お止めの如来」「ノミおさめ如来」と称される
<文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)(京都市指定文化財)>
御影堂左脇に祀られている
鎌倉時代の運慶の作といわれる
後頭部付近に直径10cm、高さ10cm程の円筒形の金属製の容器や、仏舎利を収めたとみられる小さな容器が納入されている
日本三文殊の一つ
北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だったが、
応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂が造られ祀られていた
その後、金戒光明寺の方丈に移される
1633年(皇紀2293)寛永10年
豊永堅齋が、2代将軍 徳川秀忠の菩提のために、三重塔を建立した時に本尊として移される
「雍州府誌(1686年(皇紀2346)貞享3年の刊)」によると、
「本朝三文殊の一つ」とされ、奈良の「安倍の文殊」・天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていたといわれる
渡海文殊形式
獅子に騎乗する総高2.8mの文殊菩薩を中心とし等身大の眷属4躯
優填王(うてんおう)・仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)・最勝老人(さいしょうろうじん)・善財童子
善財童子(ぜんざいどうし)は、欠失していたが古式に準じて新調されたもの
2008年(皇紀2668)平成20年4月22日
法然上人八百年遠忌を記念して、秘仏だったものが公開されるようになった
総檜造本漆塗蝋色仕様の壇に、白檀かけという金箔押しに生漆塗を施した背板を取付た須彌壇が作られ、
御影堂の左脇に安置され、御遷座開眼法要が行われた
<法然上人坐像>
御影堂中央内陣に安置されている
法然上人75歳の御影とわれ、自刻ともいわれる
<釈迦三尊像>
三門楼上に祀られている宝冠釈迦如来像・文殊菩薩・普賢菩薩
両脇に「十六羅漢像」の8体が安置されている
<宝冠釈迦如来像>
経蔵に祀られている
<阿弥陀如来>
大方丈に祀られている
法然上人の念持仏といわれる
<絹本著色 山越阿弥陀図(三曲屏風一隻)(重要文化財)>
縦101.1 × 横83cm
鎌倉時代後期の作
<絹本著色 地獄極楽図屏風(二曲屏風一双)(重要文化財)>
各100.7 × 84.1cm
大海を中央にして、上部に極楽、左下に冥界・地獄、右下に人間界が描かれている
地獄と極楽の双方が描かれている珍しい作例
鎌倉時代後期の作
山越阿弥陀図とともに制作され、臨終のときに用いられたといわれる
<絹本著色 法然上人像(京都府指定有形文化財)>
「鏡の御影(みえい)」と称される法然上人の御真影
毎年4月25日の御忌法要においてのみ公開される
<障壁画「虎図」>
大方丈の虎の間の絵
久保田金僊の筆
襖の開閉により、虎の見え方が変化する
<障壁画「松の図」>
大方丈の松の間の松の大木の絵
今尾景祥の筆
<群鷄図押絵貼屏風>
伊藤若冲の作
<一枚起請文>
法然上人真筆御遺訓
1212年(皇紀1872)建暦2年1月23日
法然上人が死去される2日前に筆をとって弟子の勢観房 源智上人に与えられたもの
毎年4月23日の御忌法要においてのみ一般公開される
<金戒光明寺再興勧進状(京都府指定有形文化財)>
<吉田寺再興勧進状(京都府指定有形文化財)>
1523年(皇紀2183)大永3年
勧進僧 聖見が吉田中山の吉田寺(江戸時代に廃寺)の再興を呼びかけた文書
<紙本墨書 吉田寺観音縁起写(吉田寺再興勧進帳写)1巻>
江戸時代の写し
原本は、1523年(皇紀2183)大永3年の勧進僧 聖見が吉田寺の再興を呼びかけた文書
<吉田寺寺号額 1面>
1807年(皇紀2467)文化4年の作
「洛陽六番勅願所 吉田寺」と記されている
<千手観音持物>
江戸時代の錫杖・宝戟
吉田寺の本尊 千手観音(吉備観音)の持物とみられている
錫杖242cm・宝戟244cm
<浄鏡 1面>
1659年(皇紀2319)万治2年
願主 駿河屋忠兵衛による中河信義の作
直径28cm
吉田寺より遷されたもの
<紙本墨書「洛東紫雲山黒谷金戒光明寺略記」1冊>
1692年(皇紀2352)元禄5年
栄摂院8世 宣悦が、古記録を書写させ、金戒光明寺に寄付した寺誌
各伽藍の由緒なども記されている
<掛け軸>
「明日の夜は いずくの誰か眺むらむ なれし御城に 残す月影」
新島八重(新島襄の妻)が、鶴ヶ城明け渡しの前夜の想いを詠んだもの
84歳のときの自筆の書
<節分会> 2月節分
<春彼岸会> 3月春分の日
<御忌法要> 4月23日・25日
<十三参り> 5月
<暁天講座> 7月
<盆施餓鬼> 8月16日
<信空忌> 9月9日
<魚鳥施餓鬼(放生会)>
9月22日
京都料理組合が参列して、本堂にて魚鳥施餓鬼法要ののち鳩や、鯉が放生される
<秋彼岸会> 9月
<七五三参り> 11月
<文殊年祭> 11月最終日曜日
<除夜の鐘> 12月31日
「としをへて またたのむべき かんぜおん いのちなりけり よしだなかやま」
<法然上人二十五霊場第二十四番 御詠歌>
「池の水 人の心に 似たりけり 濁り澄むこと 定めなければ」
<わらべうた>
「ああ真如堂(しんど) 飯(めし)黒谷(食ろうだに)
ここらでいっぷく 永観堂(ええかんどう) お茶漬けさらさら南禅寺(何膳じ)」
真如堂・金戒光明寺・永観堂・南禅寺が登場する
<八ツ橋>
箏の形を模しており、長軸方向が凸になった湾曲した長方形をしている
箏曲八橋流の祖 八橋検校のお墓がある金戒光明寺で、琴形の煎餅を売ったのが由来